才野 洋(昭和36年生/嵯峨野) | |
ネクタイを緩めぬ古老終戦日 「嵯峨野」12 | |
年迎ふ京都の端に住み古りて 「嵯峨野」5 | |
平明温和な作風だが、芯に貫くものがあり、格調高い。 駒木根淳子 | |
思い出の吟行 才野 洋 | |
東京を聖橋より見る暮春 | |
吟行は大切だ。同じ場所に長く居て外に出ないでいると、自分の住んでいる場所があらゆるものの基準になってしまうから、例えば、京都に住んでいる私にとっては
鴨川が「川というもの」の基準になってしまうので、時折用事があって大阪に出ると淀川が非常に大きな大河に見えてしまう(世界にはもっと大きな川があるというのに)。
このように色々な時代を織り込んでいることが、東京という街の力強さなのだと感じたものだった。
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現代俳句私評 | ||
包丁を拒み弾ける初西瓜 阪田 昭風 | ||
(『俳句』九月号作品8句「吾亦紅」より) | ||
好物の西瓜の話である。食す西瓜の事ばかりを句にしていたが、この作品には驚かされた。食す人間はさておき、食される西瓜を主人公にしたもので、初めてお目にかかる発想の句である。 人が気持ち良く包丁を入れて切ると、真赤な美しい色が現れ食欲をそそられる。所が、西瓜にしてみれば、ゾッとする恐ろしい出来事である。包丁で身を切られるなんてどれ程痛かろう辛かろうと想像してしまう。であるから自ら切腹を選んだ西瓜の意地。発想の豊かさの秀でた作品であると共に、人間を拒むと言う新しい詠み方が新鮮である。何となく西瓜に詫びたくなる不思議な感覚を覚えるのは何故だろう。 | ||
◇◇ 現代俳句羅針盤 ◇◇ 高瀬 瑞穂 | ||
包丁を拒み弾ける初西瓜 阪田 昭風 | ||
(『俳句』九月号「吾亦紅」より) | ||
同時掲載の 手に馴じむ夫婦茶碗や新茶汲む 二人して米寿健やか吾亦紅 の夫婦睦まじい句も惹かれるのですが、掲句の「包丁を拒み弾ける」という表現が、パンパンに実の詰まった、間違いなく美味しい西瓜に違いないと思わせてくれ、印象的でした。「初」西瓜であるめでたさもここでは効いています。 |
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俳壇月評 坂口 夫佐子 | ||
手に馴じむ夫婦茶碗や新茶汲む 阪田 昭風 | ||
(『俳句』九月号「吾亦紅」より) | ||
わかりやすい句で、とりたてて言うほどの新鮮味には乏しいかもしれない。が、しみじみと味わい深い句である。「手に馴じむ」という措辞からは、連れ添った夫婦の年月が思われ、夫婦茶碗がしっくり馴染む。日本語のもつ暖かさを思い、滋味という言葉が過る。 | ||
現代俳句評 〈414〉 岡野 多江子 | ||
包丁を拒み弾ける初西瓜 阪田 昭風 | ||
(『俳句』九月号「吾亦紅」より) | ||
甘くて最高に出来の良い西瓜だと句は言っている。
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現代俳句の鑑賞(一三六) 岸本 隆雄 | ||
手に馴じむ夫婦茶碗や新茶汲む 阪田 昭風 | ||
(『俳句』九月号「吾亦紅」より) | ||
毎年、新茶が出る頃に夫婦そろって同じ柄の夫婦茶碗でその香りと味を楽しんできた。今年も夫婦そろって新茶を嗜むことができた幸せに感謝しつつ、過ぎ去った日々を話し合っている。何でもない日常の中での幸せなひと時を切り取った句、新茶の良き薫りまで漂ってくる。 |
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作品8句 | |
吾亦紅 嵯峨野 阪田昭風 | |
手に馴む夫婦茶碗や新茶汲む | |
老鶯に歩幅小さくなりにけり | |
尾根径にまむし注意の文字太し | |
風通る楼門に据ゑ大茅の輪 | |
拍手に鳴り龍応へ梅雨晴間 | |
包丁を拒み弾ける初西瓜 | |
新涼や嵯峨野竹林幾曲り | |
二人して米寿健やか吾亦紅 | |
「続・京子の愛唱100句【癒し】」 小野 京子 | |
足首のくびれ深しや昼寝の子 阪田 昭風 | |
すがるように背伸びして父親と手をつなぎ、散歩している幼な児の、 その満ち足りた姿に思わず笑みがこぼれてくる。 向かいの歩道には、乳母車に赤ちゃんを乗せた母親と、その足にからみ つくようにしながら歩いてくる女の子…。 その光景に心がなごむ。 最近は親子でお出かけをする姿に出会うことが少なかったが、親と外出 できる子ども達の嬉しそうな笑顔やそのしぐさに見とれている私。 |
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立合の一瞬の寂初相撲 阪田 昭風 | |
『俳壇』四月号 | |
相撲は好きでよく見ます。確かに「立合の一瞬」で勝負が決まることが多いです。「寂」というのは涅槃のことで、絶対的な静寂に達した状態と辞書にあります。
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新 春 阪田 昭風
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改まる富士の裾野や初茜 | |
ダイヤ婚迎へる年の明けにけり | |
手招きに席譲らるる初電車 | |
立合の一瞬の寂初相撲 | |
新春や兎餅搗く月昇る | |
顧みて佳きことばかり実千両 昭風 | |
これは、高幡不動尊境内の村沢夏風先師の句碑「むさし野の雲ふはふはと初不動」(嵯峨野二十五周年記念建立)の隣の、五十周年記念師弟句碑の句です。 私の人生の幸せは、俳句を通しての生き方を教えられ、掛替えのない句友との交流をいただいたことです。もし俳句がなければ、私の人生は無味乾燥なものだったでしょう。俳句は私の宝物です。 | |
風薫る左文右武の學舎跡 鈴鹿野風呂
京都というと日本文化の中心地というイメージがあるが、戦前は武道の中心地でもあった。
と言うのは、かつてこの地に大日本武道専門学校があったからだ。
大日本武道専門学校は大正十三年に、日本の武道の中心たるべく、平安神宮の隣に建てられた。
教育方針としては文科の教育にも力を入れていて、鈴鹿野風呂(本名 登)はその文科教授として赴任し、
戦後GHQの指示によって廃校となったときは、最後の校長として同校を収めた。
現在では跡地に近代的な「京都市武道センター」が建てられ、今なお武道の中心地としての役を担っている。
そして武道専門学校の武道場であった武徳殿は、武道専門学校創設に先立つ明治三十二年に、平安建都千百年記念事業
の一環として、平安京の大極殿を模して建設されたものであり、今なお現役の武道場として、各種武道の稽古や試合の
場として活躍している。
さて話は変わるが、吟行に行く際に、吟行地の予習をしていた方が良いか否かの問題がある。
予習をしない方が良いという意見としては「先入観に惑わされることなく、景を自分の目で見た方が良い」
ということが言われる。
しかし私は予習をしていった方が良いと思う。
自然の景色としての情景をただ見て感得するだけでなく、その地の歴史や、その土地での人の営みを知っておいた方が、
景をより深く見ることが出来ると思うからだ。
畢竟、詩というものが人の心に訴えかけるものである以上、たとえ「叙景詩」であったとしてもそれに関わっている人の
営みを知っておく必要があるだろう。
またそもそも文学というものの存在理由は、先人の体験を追体験するところにあるのだから、俳句を作る作らないにかかわらず、
自分の訪れる先の歴史を知っておくことには意味があるだろう。
ただ予習しておくことの大きな落とし穴として、句が「単なる知識の披瀝」に終わってしまうという可能性がある。
幸い、俳句には「季語」という力強い味方があるので、季語を活用することによって、対象の景に対する
(つまり対象の景の背後にある歴史的な事象や人物に対する)作者の気持ちを表現することが出来る。
そのように作者の気持ちを句に表現することによって、単なる知識の披瀝や常套表現となることを防ぐことが出来るであろう。
冒頭の句に即して言えば、最初に「風薫る」という力強い季語を置いたことによって「青春」が連想され、
さらに中七・下五の表現とも相俟って、この学校で学んでいた学生たちの真摯な姿が読む者の脳裏に再生される。
また最後の言葉を「跡」と結んだことも効果的だ。
もちろん史跡を訪れれば全て「……跡」であることは当たり前なのだが、
それまでの溌剌としたイメージがこの「跡」によって一抹の寂しさと化すところに、心動かされる。
そしてそうであっても、当時の若者達の情熱はまだこの地に残っているという希望も感じさせる一句である。
勿論鈴鹿野風呂はこの「學舎」の当事者であったので、この地を訪れるに際して予習はしなかったであろうが、
それでも自分の体験の大きさに流されることなく、客観的な句を作ったのは流石である。
この句を見た人は、たとえ武道専門学校のことを知らなくても、若者の息吹を感じることであろう。
さて冒頭に挙げた鈴鹿野風呂の句は、武道センターの南側の門(武道専門学校の正門)の脇に句碑が建てられてある。
いや、「武道センターの南側の門」と言うよりもむしろ、「平安神宮観光バス駐車場の北側」と説明した方が句碑に辿り
着きやすいかも知れない。
なにしろ今では武道センターの出入りは西側の門から行われているのが殆どで、南側の門の存在を知らない人さえ居るぐらいだから。
京都という町は、意外なところや見落としやすいところに歴史の証しが残されている町である。
或いは京都に限らず、「歴史の証」というものは、一般的に言って見落とされやすいところにあるのかも知れないが。
向 日 葵 | |
金魚草大学生の集ふカフェ | |
鉄線の花や明治の煙草盆 | |
東屋の深き庇や山法師 | |
離陸する一機のセスナ立葵 | |
向日葵の供へられゐる事故現場
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「俳人」と呼ばれる人も多くの方は別の仕事を持っておられるでしょうが、私は他の職業に就いておらず、
「専業俳人」として活動しています。
と言いますのは、副主宰をしていたときには会社員との兼業だったのですが、会社の仕事の合間に結社の副主宰の仕事をするのが
あまりにもタフで、「こりゃ体がもたない」ということで、主宰就任を機に会社を辞めて「専業俳人」になりました。
おかげで全ての時間を「嵯峨野俳句会」の主宰としての仕事に充てることが出来、結果として良かったと思っています。
(まあ、会社を辞めることが出来たのはそれなりに幸運な偶然が重なっていたのですが)。
さて、「俳人」としての仕事で一番大きいのが句会の指導です。
私の場合結社の各地句会や、その他地域の老人会の俳句会などを含めて月十回以上(月によって変わります)。
この二年間はコロナの影響で対面での句会が中止されることもありましたが、その分(文明の利器のお蔭で)通信句会が行われ
ますので仕事量としては変化はありません。
そして、もう一つ大きな仕事が結社誌の編集で、月に三回(現在はコロナの影響で二回)の編集会議があります。
結局月に十五日ほどが「出勤する」仕事となります。
これだけ聞けば一月を半分だけ働く優雅な生活のように思われるかも知れませんが、当然「出勤しない」仕事もありますので、それなりに退屈はしていません。
まず、月に十回句会に出るということは句会に出す句がそれだけ必要ということで、その句を作らなければなりません。
一つの句会に五句乃至七句を十数回の句会分、締めて七十句ほど。
さらにその倍は作って絞ってゆくので、計算上は百句以上を作ります。
よく「どうやって句を作るのか」と尋ねられますが、私の場合は歳時記を見て自分で兼題を出したり、一人吟行をしたりと色々です。
そうそう、以前ラジオの番組で「立派なビジネスマンになるためには電車に乗っているときでも車窓の景色を只見ているだけでは
いけません」と言っているのを聞いたことがありますが、
私の場合は逆に電車に乗っている時はぼーっと景色を見ていることが仕事になります。
また「出勤しない仕事」として添削指導や、俳誌に載せる記事の執筆ということもあります。
また、他の方の句集を読んだり、感性を磨くために美術展や芸能の公演を鑑賞したりもしています。
意外と思われるかも知れないところでは、主宰に就任してから茶道の稽古を始めました。
これは、自分が茶道をしていないと、茶道関係の句がわからないからという事情もあるのですが。
さて、俳人としての基盤は、「自分が良い俳句を作ること」だと思っています。
しかし俳人としての仕事の本質はそこにあるのではなく、
「結社に集まった人や句会に参加している人に、俳句を楽しんで貰うこと」にあると思っています。
ですから、例えば句会の講評で「この句はここをこうしたら、もっと面白い句になりますね」と私が言ったときに、
参加者から「おお」と声が漏れると、仕事をしたなという実感が湧きます。
さらにもう一歩進んで、俳句を知らない人にも俳句の魅力を知ってもらえるような仕事ができたらなあと思っています。
贅沢な願いでしょうが。
花 野
才野 洋 (嵯峨野)
滴りの波紋や水面あらたまる 石鹸の痩せきつて夏終わりけり
斑猫は親切だとは限らない 敗戦忌目を射貫くかに真昼の陽
忙しき日となる予感蝉時雨 応挙忌のかげりゆく陽を白芙蓉
結論の出ない会議やさるすべり 遠き田の稲の香りや朝の風
サイダーの消えゆく千の泡の声 吹き渡る風の眩しき花野かな
砂踏めば晩夏の音を返しけり みどり児の大きなつむり秋高し
福は内
阪田昭風 「嵯峨野」
平成の結びの年や千代の春
初凪や沖の明るき夫婦岩
急湍を動かぬ鳥や初景色
奥つ城の初松籟に父母のこゑ
頂上に残る夕日や三日富士
振り向けば妻遅れをり松の内
あれは誰マスクして手を挙げる人
鶴首して待つと招かれ福は内
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