雑記つれづれ

「京のおかし歳時記」   第282号 大覚寺


ホームページ5月号では、以前ご紹介致しました京都桂離宮の南側、明治16年創業の老舗和菓子店「中村軒」

の中村優江(まさこ)さんが、温かい京ことばで語られております「京のおかし歳時記」第282回 大覚寺、

一部を掲載させていただきます。 文中、俳誌嵯峨野の創刊について、大変貴重なお話が語られています。

また、「京のおかし歳時記」は、毎月、楽しくためになるお話ばかりです。毎月号を遡って読んいただいても新鮮で、

ほっこりされると思います。ぜひお目通しください。全文閲覧希望の方は、よろしければ こちらへ どうぞ。(信)

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 第282回 大覚寺  ~ 抜粋 ~            中村優江(まさこ)

 

最近いけばなのお稽古を始めています。中村軒のお得意様の奥様が

嵯峨御流の華道の先生で、月に一回のお稽古に通っています。

娘の頃にもご近所の先生に習っていたけどあの頃は、特に流儀花と

呼ばれるお生花は苦手で先生にも母にも呆れられて、ついに止めてしもた。

今習ろうてる嵯峨御流いけばな展は4月12日13日14日と大覚寺で

開催される。ええ季節やさかい楽しみによせてもらおうとおもてます。

大覚寺の東に日本最古の人工の池である大沢池があります。中国の

洞庭湖を模して造られたそうな。ここに有名な滝がある。

 

 

 

 

  滝の音はたえて久しくなりぬれど 

           名こそ流れてなほ聞こえけれ   大納言公任 

     

昔 嵯峨天皇様が愛でられたという有名な滝。今は涸れて滝の音も

途絶えて久しいがその名は今も世に知られており人々の耳には音なき

滝の音が聞こえている。 

    

 ~ 中略 ~

 

大沢の池で私がとくに好きなのは大沢の池の東畔に建つ臼井喜之助の歌碑です。

 

  花を惜しむこころは

  いったい何なのだろう

  いくつ歳をかさねたら

  心はしづまり

  ひとり酒汲む静寂に

  住むことができるのか

  今日も嵯峨御所から

     花信が舞いこんできた

 

 

  私が入ってる俳誌嵯峨野を発行を企画し実現させたのは詩人であり

白川書院社長であった臼井喜之助さんです。

 

嵯峨野創刊号はその扉に「我々は一流一派に偏せず芭蕉、蕪村に還る志を

もってひろく俳句する心を究め観照の世界に徹しようとする。有季定型を

原則とし、新人もベテランもともにその力量のままに句作を楽しむ場を

開きたい」と旗印ともいう言葉を掲げています。

 

「お顔もしらず職業、身分も知らないがそれで良い。俳句によってその人、

 その心魂を知るすなわち俳句の縁である」。

 と喜之助さんから嵯峨野を託された高桑義生先生の言葉です。

 

  嵯峨御所の橘薫る泊りかな     阿波野青畝

  春風と遊ぶ大沢の池広し      優 江

 

春のひと日、こころを癒すかとができる大沢の池です。

 

  ~ 中略 ~

 

 

ほなこの月もめでたしめでたし。

 

 

 

 

 

「越後駆け足旅」 (座敷わらしレポート)


令和6年4月のミモザ句会報には、久方ぶりに研二さんより座敷わらしレポートが寄稿されましたので、早速掲載させていただきました。今回は越後への駆け足旅、いつもながら、座敷わらし君がおやじ殿をいじる言葉に軽く吹き出しつつ、楽しく読ませていただきました。(信)

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                           相良研二

  越後駆け足旅 (座敷わらしレポート)

 

深夜二時、ガバと起きたおやじ殿、またどこかに行くらしい。

訊けば行先は新潟の長岡と燕・三条。

なぜそこかというと、昨日思いたった旅なので、そちらまで行かないといつもの全日本貧乏人協議会指定のホテル、

ルートインが取れなかったためとか。

ちょいと名の知れた観光地はインバウンドの外国人で溢れかえっているから仕方ないか…。

それにしても急な旅立ちの分けは、なんでもストレスがたまったからだそうだ。

おやじ殿は人間の器が小さいからストレスも直ぐに溜まるらしい。

最近は生意気にも心楽しまないことが多いらしいとか。

何を思ったのかこの頃、太宰の『人間失格』なんて読み返しているらしいけれど、

なんだかんだとしょうもないことを、うだうだ書いてあるああいう本は、純真無垢で多感な青少年期に読むもので、

おやじ殿のように人間失格どころか人間への受験資格もない人が読むものではないのだ。

 

真夜中のサービスエリアのフードコート。

ここまでおやじ殿は圏央道から関越道へと車を走らせて来た。

こんな時、おやじ殿はカーステレオからお気に入りのリトルペギーマーチやブレンダリーの曲をずっと聴いている。

音痴のくせに六〇年代のアメリカンポップスが好きとか、おやじ殿のくせに、やっぱり生意気。

フードコートはガラーンとしていて、おやじ殿と眠そうな顔の厨房のおっさんの他には誰もいない。

おやじ殿はこんな雰囲気も好き。

そう言えば昔、アメリカのドラマで『逃亡者』というのがあった。

デビッド・ジャンセンの主演で、妻殺しの疑いを掛けられたリチャード・キンブル医師が、執拗に追い詰めてくる

ジェラード警部の追跡を逃れ全米を逃げ回るドラマだけれど、荒涼とした中西部辺りの深夜のひっそりとした

ドライブインで、コーヒーとハンバーガーで一息ついているシーンの、甘いマスクながらどこか憂いと影を秘めた

キンブル医師の横顔に、全米はおろか日本国の婦女子も胸をキューンとさせたそうな。

今のおやじ殿も似たような場面ではあるのだけれども、実際は、ただの汚らしいジジイが六五〇円の天玉蕎麦を

ショボショボ顔で啜っているだけ。

胸キューンは絶対にない。

 

途中、越後川口のサービスエリアでちょっと仮眠して早朝の長岡市内へ。

この街は維新の戊辰戦争と先の戦争の長岡大空襲の、二度の戦渦で街のほとんどが消滅した。

そのためか旅人には、ただ、だだっ広いだけの何の特徴もない印象が強く、融雪パイプのせいで

茶色くなった道だけがやけに目についてしまう、そんな街の感じだ。

おやじ殿はとりあえず、河井継之助記念館に行ってみることにした。

司馬遼太郎の歴史小説『峠』の主人公で、家老として長岡藩を率いて果敢に新政府軍と戦った。

そう言えばおやじ殿は、会津若松には四回ほど、二本松にも三回ほど足を運んでいる。

いずれも賊軍として戦い、敗れた悲しい歴史を持つけれど、どうもおやじ殿は賊軍が大好きなようだ。

ご自分と同じように滅び去るものに親近感を持っている。

記念館では十五分ほどビデオを見てから資料を見て回ったけれど、

戊辰戦争のことよりも河井継之助がいかに優れた人物で、領民に慕われた名家老としての方に展示の重点が

置かれていて、この点は会津の記念館とはちょっと趣きを異にするようだ。

 

次に、さてどこか行く所はとスマホで調べると、国上寺と五合庵というのが目についたので、

さっそく行ってみることに。

ナビに名称とか電話番号を入れると、そこまでのルートや距離、到着時間まで教えてくれるので大変便利。

国上寺(こくじようじ)は国上山(くにがみさん)の中腹にある真言宗の新潟県内最古の名刹で、境内に本堂や客殿、

六角堂などの伽藍が立ち並び、この寺の稚児が大江山の酒呑童子なったという伝承がある。

この寺域には良寛が仮寓した五合庵があり、おやじ殿はそこを見に行くことにした。

アホなおやじ殿は時々、一休と一茶と良寛が頭の中でごっちゃになる様だけれど、良寛は越後出雲崎の出身の

徳の高いお坊さん。

和歌や詩に秀でていた。

生涯にわたって寺を持たず清貧の内に暮らした人。

五合庵は、もとは国上寺本堂を再建した客僧萬元上人が毎日米五合を給されたことに由来する。

良寛は四十歳頃からこの庵でおよそ二十年間暮らしたそうだ。

深い木々に囲まれた粗末な一間ばかりの庵は、清貧に甘んじた僧に相応しいものだけれど、

ここでおやじ殿は、やにわに紙を取り出して何やらブツブツ云いながら計算を始めた。

「待てよ、毎日米五合だとすると、米一升は十合で重さ一・五キロ。

五合はその半分の〇・七五キロ。毎日〇・七五キロの米を貰うと、ひと月三十日では二十二・五キロ。

大人ふたり子供一ひとりの家庭で五キロの米を消費するには一日三杯ずつ食べても九日間かかるそうだ。

つまり坊さんひとりでは一日五合の米は貰っても全然食べきれないほどの莫大な量だ。

この坊さん、貰い過ぎ、というか大変な欲張り坊主だ」。

 

おやじ殿はどうして、物事をそう直ぐに裏側から見たがるのかねー。

米五合はあくまでも象徴的な意味合いで、もし事実だとしても、それは一部をお金に変えたり、

お弟子さん分けたりしたことは容易に想像できるので、何でも悪意に解釈するのはおやじ殿のよくない癖だ。

 この五合庵に行く径の途中に面白い看板があった。

そこには「あなたの俳句・川柳を国上寺に遺しませんか。

五合庵へ続く参道沿いに句碑を建て、後世まであなたの心を遺します。

サイズ縦九十センチ横三十センチ、金額はお寺までお問合せ下さい」と書いてある。

なるほど俳人の心をそそるような上手いところを突いてくる。

この田舎のお寺、なかなか隅に置けない。

でも、見たところその誘いにのった句碑は一基しか見当たらなかった。

 

三条市内のホテルにチェックインするには未だだいぶ時間があるので、

おやじ殿は山古志村の棚田を見にいくことにした。

 方角的には来た道をかなり戻ることになるけれど、もともと計画性のない旅なので全然気にならない。

 山古志村というと二十年前に起きた新潟県中越地震で壊滅的な被害を受けた山村として知られているけれど、

 今は葉桜のなか長閑な景観を取り戻していて、日本の原風景のような景色が広がっている。

 棚田も美しい。

 復興までは相当の苦労があったのだろうけれど、車を停めて道端から眼下の棚田を見ていると、

 何やら心洗われるような気分にもなる。おやじ殿は暫しぼ~っと眺めていた。

 ここは棚田の他にも闘牛や錦鯉の里としても知られているけれど、

 やはりここ山古志村の景色が旅人には一番のご馳走だろう。

 また再び来たいところだ。

 

↓山古志村の棚田

 

ところで、おやじ殿はまだ一度も句帳を取り出していない。

今回の旅では旅吟はしないつもりのようだ。

ちょっともったいない気もする。

旅吟と云えば、先日、長野県の佐久市俳句協会から図書カード千円が贈られてきた。

昨年秋に佐久市のお寺で人間魚雷回天の碑を見て投句ポストに入れた句が入選したからで、

忘れたころに届く知らせは嬉しいもの。

投句ポストに投函して入選するのはこれで二回目。

別に物につられて投句するわけではないけれど、投句ポストはライバルが少なそうで入選の確率はいいかも。

 

いつものようにコンビニで晩飯とお酒やつまみを買い込んで、ホテルに十六時頃チェックインした。

おやじ殿の旅でのお楽しみは、その地方地方のローカル番組を見ること。

風呂のあと地酒をチビリチビリやりながらテレビを見ていると、「新人女子アナの新潟日本一調査」

なんていう番組をやっている。

その中で、何でも新潟県人のイチゴ消費金額は日本一だそうだ。

越後姫とかいう新潟産のイチゴ栽培農家を訪れた、ちょっとオキャンそうな女子アナが勧められて、

でっかいイチゴを、大口を開けて丸かじりしている。

それを見ている農家の主婦のびっくり顔は笑えた。

また新潟県新発田市の櫛形山塊は日本一小さい山脈だそうで、全長十三キロ、高さ三〇〇メートルしかないとか、

ローカル放送もなかなか勉強にはなる。

そう言えばさっき見た全国放送のニュースで、記録的な円安で外国人観光客が押し寄せ、

どこの観光ホテルや都市ホテルも満員で宿泊料が高騰していると言っていたけれど、

この影響はおやじ殿にも及んでいる様だ。

おやじ殿の旅行は奥さんのお供でもない限り、大抵はルートインだけれど、

今回は長岡のルートインが満室でとれなかった。

ルートインなんて平日は前日でも当日でも予約可能なのに不思議。

仕方なく三条市のルートインを前日予約したけれど、既にシングルは満室で、ツインが数部屋残っているだけだった。

つまりこういうことのようだ。

円安でホテル・旅館は、にわか金持ちの外国人に占拠されてしまい、行き場を失った日本人観光客が、

全日本貧乏人協議会指定のルートインに押し寄せたのだ。

翌朝、朝めしバイキングを覗いてみると、いつものガテン系の人や出張のサラリーマンに混じって

中高年の日本人観光客もかなり多かった。

同協会の筆頭理事を務めるおやじ殿としては、貧乏人会員が増えることは歓迎だけれども、反面、ちょっと複雑。

 

おやじ殿は弥彦神社に向かった。

ここは越後一之宮、祭神は天香山命で創建年代は不詳。

つまりそれだけ古い社。途中の高さ三十メートルの巨大鳥居は見応えがある。

広い神域はよく手入れがされていて、緋袴の巫女さん達が箒片手にせっせ境内を掃き清めていた。

神様しか渡れない橋とか占いの重軽石とかその他いろいろ見どころは多い。

まだ朝も早い頃なので人は少なく、厳かで静かな雰囲気がとてもいい。

静かで思い出したけれど、昨日からの旅で、これまで外国人観光客を全然見かけていない。

重そうな旅行鞄をズルズル引きづっている欧米人や、あたりかまわず大声で喋りつづける中国人観光客がいない。

長岡、燕、三条などというメジャーでもない地方都市はイベントでもない限り外国人観光客は見過ごしてしまうのかも。 

おやじ殿は弥彦神社を後に信濃川に沿って海へ、信濃川と日本海がぶつかる辺りから

国道四〇二号線を柏崎方面に向けて南下。

途中、魚のアメ横と云われる寺泊魚の市場通りでお土産の甘エビを購入。

出雲崎の良寛記念館と芭蕉園を目指した。

出雲崎は良寛生誕の地だが、残念ながら記念館は展示替えで臨時休館、その近くにある芭蕉園に行ってみた。

ここは芭蕉が奥の細道の途中で、有名な句『荒海や佐渡によこたふ天の川』を詠んだ地だけれど、

その場所が今は芭蕉園として公園になっており、四阿や句碑のほかに芭蕉像も建っている。

その像のそばに俳句ポストがあったけれど、残念ながら投句用紙は見当たらなかった。

出雲崎は静かな海辺の集落で今も交通量は少ない。

往時、芭蕉がここをトボトボと歩いていたのかと思いをはせ、おやじ殿はしばし浜辺に佇み、

寄する小波を見ながらぼんやり。

刈羽の原子力発電所の厳重に鉄条網で二重に囲われた脇の道を抜けて、柏崎インターから北陸自動車道へ。

ほぼノンストップで高速道を一路帰宅を急いだ。

午前中、日本海の海を眺めていたのに、夕方には自宅の蒲団にくるまっているおやじ殿。

はい、お疲れ様。   

                                     終

 

 

 

 

 

「ベートーベンの朝食」


2024年2月のミモザ句会報に松尾憲勝さんから標題のエッセイが寄稿されましたので、ホームページにも掲載させていただきます。

しばし、BGMでも聴きながらお楽しみください。(信)

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ベートーベンの朝食

                松尾憲勝

たまに自転車で街まで買い物に行くことがある。

前籠にバケットを入れて自宅に向かっていたら、

急に雲行きが怪しくなって雷が阿夫利山から迫って来た。

春の雷である。

雨宿りにと思い、行きつけの喫茶店に駆け込んだ。

この店はマスターがまだ若い頃から寄っていた店で、主に焙煎を中心にしているが、

五六人が座れる位の椅子席も用意されている。

私はこの店の流すBGが好きで一時間近くを過ごすことがある。

この日は珍しくベートーベンの交響曲「田園」が流れていた。

 春雷とは何となくつじつまが合う様な曲想を思いつつコーヒーを啜っていたら、

 もう一つ壁に手書きした小さな紙片が目に入った。

 「ベートーベンの朝食」というマスターが書いた文章である。

 興味をひかれたので、この文章を要約して紹介したいと思う。 

 

 十八世紀末から十九世紀初頭のウィーンでは、バッハ時代のコーヒー台頭期はもう過去のもので、

 市内ではコーヒーハウスが林立していた。当時のコーヒーハウスは中流階級の者には欠かせないものとなっていた。

 富裕層や上流社会の令嬢はもうワンランク上のコーヒーハウスに行った。

むさくるしいベートーベンは新式のガラス製コーヒー沸かしを使って、もっぱら自宅で飲むことが多かった。

彼の朝食は一杯につき六十粒の豆を用いるコーヒーだけで済ますことになっていたという。

 

一八一六年の夏、彼を訪問した医師カール・フォン・ラルシーは次のように書いている。

 

「ベートーベンは書き物机で一枚の楽譜用紙に向かいコーヒーを沸かしているガラス製フラスコを前にしていた」。

 

注、ベートーベン 一七七〇~一八二七没

 

 

 

 

 

編集子の勝手にコーヒー       2024年2月 ミモザ句会報より


いつもミモザ句会報から、相良研二さんのユニークな物語やエッセイを掲載させていただいておりますが、今月は新作「落語」のお噺を一席お楽しみください。(信)

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タイムトリップ熊・八

                     相良研二

 

熊五郎 おう、八、居るけー。

                あはは、案の定しけた顔してふて寝してやがらー

 

八兵衛 なんでぃ、熊の兄いかー。

    飯炊き婆が旅に行っちまったんで腹減ってよ、

    なるべく動かないようにしているだけよ。

    柔術の先生のところも今日はいかねえ

 

熊   かみさんを飯炊き婆とはひでえなー。

    で、そのことよ。おめーのとこも、うちのかかあも二人して富士講にいっちまって、こちとらも暇よー、

    そこでだ、俺っちらも旅に出ねえか。

 

八   旅って、どこへ。おいらも兄いも、でえくで明日は仕事じゃねえか。そんな余裕はねえよ

 

熊   それがよ、きのう湯屋で若旦那からいい話を仕込んできてよ、うふふ

 

八   なんでぃ、その含み笑いは気持ち悪い。

    若旦那って、塩問屋越後屋のあの馬鹿息子のことけ、道楽者のくせに金払の悪いけちで評判の…

 

熊   そうだけど、まあ聞きねぇ おめー、甚兵衛長屋の続きの原っぱに、新しく出来たお寺を知ってんだろう

 

八   えーと、確か京都の陰陽師の小野篁とかいうのを祀った六道珍皇寺神田分院とかいう寺のことけ

 

熊   それそれ、その六道珍皇寺。

    若旦那のいうには本場京都のそれは、何でもその寺の井戸は底の方で地獄に通じていて、

    篁のおっさんは閻魔様の処に毎晩通勤していたっていう話が残っいるけど、

    こっちの分院の方の井戸は、飛び込むと、きてえ時代に通じているそうだ。

    それで、行っている間はこっちの時間が止っているので大丈夫なそうだ

 

八   じゃー、明日の仕事に間に合うな。それでどうしたんでぃ

 

熊   それでよー、芝居好きの若旦那は、

    「それでは拙は歌舞伎が好きなんで、ひとつ二百年後の歌舞伎はどんなだか見てりましょう」ってんで、

    その分院に行ったそうな。

    井戸の傍に小坊主がいて、手間賃を払うとこちらの金を行きたい代の金に両替してくれるんだと、

    そんで井戸に飛び込むときには、行きたい場所唱えるといいそうだ

 

八   で、若旦那はどうした

  

熊   若旦那は小坊主に一両小判を渡して十万円とかに両替してもらって、そいつを懐に「いっちょう、歌舞伎を見に」

    とか大声で唱えて井戸に飛び込んだ

 

八   ふんふん、それで 

 

熊   そうしたらよ、若旦那の話では、何でも歌舞伎町とかいう所に着いちゃって、暫くぼーっとしていたら、

    髪が金髪で黒装束のあんちゃんが寄ってきて「いよ、若手芸人のお兄さん、今夜はお遊びのお稽古ですか、

    いい娘そろつてますよー。九十分飲み放題、一万円ぽっきり、女の子隣にべたべた」とか訳の分からない呪文

    みていなことを言いながら、長屋を立てにしたような石造りの家の三階に、釣瓶みたいな箱に乗せられて連れて

    いかれたそうな。店に入ったとたん女の子が三人ほど「きゃー、芸人さんがご来店」とか言って飛んできて、

    ソファーとかに座らされて、両隣りからべたべたのうふふ

 

八   兄いが鼻の下のばしてどうすんのよ

 

熊   女の子が「芸人さん、所属どこ、吉本?芸名はなんていうの」って訊くから、若旦那が「いや、越後屋の与之助」

    って答えたら、もう爆笑の大うけ、それからは飲めや歌えのどんちゃん騒ぎのおおもて、一万円のはずが十万円

    ぼったくられたけれど、若旦那はにこにこ、若旦那もう一回行きたいって。

   で、この話は内緒だけど、熊五郎さんには特別に教えますよ、だって。

  まだ、あのお寺は開店して間がないから、行きたい時代にいけるって話、あまり知られていないらしい。

  どうでい兄弟、行ってみねえか

 

八   行く、行く。どうあっても行きますよ。紅おしろいの娘に会いにいきますよ、うふふ

 

熊   よっしゃー、決まったらこれからさっそく、どうせこちらの時間はとまっちまうんだし、ところで路銀は?

 

八   二人合わせて二朱銀三枚かー、まっ、これだけあれば何とかなるだろう

 

 からすカーと鳴き、半刻後

 

八   おっ、ここがその何とか寺の分院け、紅白の幔幕なんか張り巡らして、新規檀家大募集中なんて幟立てやがる。

    いたよ、いたいた。あの小坊主か、青ぱっななんかだしやがって、井戸の傍らでぼーっとつったてやがる

 

熊   おい小僧、どこでも行きてえ所にいける便利な井戸とはここけ

 

小僧  ああ、そうだよ。本当はね。和尚さんから信心の厚い人だけに阿弥陀浄土とか補陀落浄土に束の間ご案内し、

    ますますの信心精進を深められますように、と言いつかっているんだけれど、そんなこと守っていたらおいらの

    駄賃がちっとも増えないからね、和尚さんに内緒で頼まれたら来世のどこでも好きな処にいかしてあげるんだい

 

熊   おお、そうかい。なかなか出来たガキだ。そうこなくっちゃ。

    それでよ、俺っちたちは、いちど後学のために今から二百年後の歌舞伎でも見てえてと思って来たんだ  

 

小僧  ぐふふ、そんな人が昨日も来たっけ。戻ってきたら両のほっぺに口型の紅なんか付けて目がでれーっとしてた。

    おじさん達、おいらの手間賃もこうなると、ちと高めだよ

 

八   けっ、ガキのくせに足元みやがる。まっ、いいや。ほれ、駄賃の五分だ、取っておきな

 

熊   おう八、井戸っぺたの縁にこう二人してあがって、「それ、南無さん、いっちょう歌舞伎を観てえ」  ドボン

 

八   痛てて、なんかこう石畳にしたたか尻っぺた打っちまった。

    ほう、これが若旦那のいう歌舞伎町け、なるほど赤や青のけばい提灯みてえなのがたくさんぶら下がっていやがら

 

熊   しっ、おう八、来たよ、きたきた、さっそく紅毛人みてえな、

    女だか男だか分からねえ、ひょろっこいのがこっちへ飛んできやがら  

 

客引  お兄さん、お兄さん、もうどこかお決まりですか?おや、

  お決まりでない。そりゃーよかった。お兄さん方にぴったんこのお店、北は露西亜から南は安南、中華の姑娘、

  大和撫子まで女の子がわんさか、絶対うそはつきません。さつさっ、こちらへ。

  そのちょんまげの江戸っぽいコスプレ、女の子がほっときませんよー。

  でも、これ独り言ですから、なんせ条例がうるせーんで、別に話しかけている分けじゃありませんよ。

  聞こえたら黙ってついて来て下さい。あっ、これも独り言ですから…

 

八   兄い、こいつ何だか変なことぬかしてやがる。

    でけぇ声だして話しかけてんのに独り言だとか、ひとつ張り倒しちゃいますか

 

熊   待ちねえ、これには何か仔細がありそうだ。

    まっ、ついて行ってみようじゃねえか 

    (注、八も熊も当世の東京都迷惑防止条例なるものの存在は全然知らない)

 

店長  二名様ご来店、アケミさんヒトミさん、三番テーブルご案内、レイナさんヘルプについてー

 

アケミ キャーかっこいい、もしかしてお侍さん、えっ、違うの町人さん、とか本当は芸人さん。凄ーい、その格好ちょーモテそう。

    (また来たよ、変なのが。昨日も来たけど、芸人とか言えばモテると勘違いしてんのかな。まっ、いいや。

     ばんばん使わしちゃおうっと。注、ここからは時々、副音声を交えてお送り致します)

 

熊   八、見ねえよ、豪勢なもんじゃねえかよ。

    べにおしろいの姐ちゃんたちがわんさかいて、蝶蝶みていに男にとりついていやがらー。

    お上の治世よろしく二百年後のお江戸も将軍様のご威光とどこおりなしてぇもんじゃねえか

    (注、熊・八両名とも大政奉還、ご維新のことはつゆとも知らない)

 

ヒトミ ねぇー、ねえ、お二人なにボーっとしてんのよ。さっさっ、こっちへ、お座りくんなましなー

 

八   なんでぃ、そのくんなましなーてぇーのは

 

ヒトミ あはは、お客さんたち、そんな格好しているから花魁言葉を使ってみたの。

    私こう見えても昼間は大学の国文科に通ってんだから、専攻は近世江戸の町民文化。

    ここは、ほんのアルバイト、うふふ 

    (注、いつの時代でも酔っ払いや助平は素人風に弱い、但し、熊・八は女子大生の何たるかを、そもそも知らない)

 

アケミ お客様達、お飲みのは如何致します。ドンペリそれともワイン?

    今ならボルドーの2002年ものなんか如何かしら… (おーし、ぼったくっちゃおー)

 

熊   ワイン?なんでぃ、それは紅毛人がよく飲んでいるとかいう人間の血みていなやつか。

    ご免こうむりやしょう。それより姐ちゃん、桝できゅーっと一杯、冷でいいから焼酎持って来てくんねい

 

ヒトミ (ねー、なんなの。こいつら。芸人が完全にはまっている。テレビで見たことないし。

     もしかしたらユーチューブかんなかで売れているのかしら、お金持ってそうかも)

    ねえ、ねえ。お二人ともお名前きかせてよー。私、もうファンになっちゃうから♡

 

熊   俺は熊、それに相方は八、仕事はでえくをしてんだー。

    姐ちゃんたちも、いずれも別嬪ぞろいじゃねえか。今日は楽しくやろうや。

    そのドンペリとかでも、ボルドー何とかでもなんでも、じゃんじゃんもってきねえ。

 

アケミ キャーお客さん達かっこいいー。

    じゃ私ついでにフォアグラとキャビアのてんこ盛りサンドも頼んじゃおうかしら。

    でも、そのまえにお客さん、ちょっとカードとか見せてよー。(隣にべたべた)

 

八   熊の兄い、女の子がさっきから芸人芸人て騒いで、きゃーキャー云ってやがるけど、芸人なんてえーもんは、

    親方について長い こと血の出るような稽古をしてやっと晴れて芸人でございと大きな顔ができるもんよ。

    それとも、こちとらの芸人はたいして稽古もやらず、下手くそでもあんちょこに芸人と名乗りゃモテるらしい、

    ふん、芸人も薄っぺらになったもんよ

 

熊   おう、いいとも。カードでも質札でも何でも見せてやらー。

    でも、そのめえに、だちと小便に行かせてくんねえか。江戸の冬は格別さむいや (まったく、八の云う通りよ)

 

アケミ あーらお客さん、いまご案内しますからちょっとお待ちを

    (店長店長、ちょっとこいつらヤバそう。ふたりいっぺんにトイレだって、誰か付けた方がいかも。

     もうこんだけ勘定ついちゃっているし…)

 

ボーイ さっ、さっ、お客様こちらへ、ご案内致します。

 

熊   おう、八。見ねえよ。大入道みてぇのが、疑りぶけえ顔してついてきゃがら。

    ところで八よ、なんかこうしてドンちゃん騒ぎをしていても、ちっとも面白くねえ。

 

八   兄いもそうえけ。実はおれっちもだ。むなぢの谷間や太腿なんか、これ見よがしに見せつけやがって、

    あれじゃ粋もへったくれもありゃしねぇ。こっちの野郎どもはでれでれしたって、こっちとら江戸っ子でぇい。

    そんな薄っぺらいお追徴にはだまされねえ

 

熊   まつたくでぇ。ああいうもんは秘すれば花ってぇ云うじゃねえか。

    見えそうで見えねえ。やっぱり見えねえ。でも中はどんなかなー♪、

    てえところがおつなんじゃねえか

 

八、  あーあ、なんかこちらの花街は詰まらねえな

 

熊   おれっちも同感、おう、八、いっそのこと、このままふけちまおうか

 

八   でも兄い、勘定は?

 

熊   なーに、あの若旦那だって一人で一両もとられたんだ、おいら達二人で二朱銀三枚じゃーとてもたりねえ。

    俺は、はなから踏み倒す算段だったのよ。

 

八   そりゃー、俺もこっちの番所に突き出されるよりはいいけれど、で、どうするんでい

 

熊   八、おめえ何のために柔術ならてんでぇい。こんな時のためだろう。

    幸い、この厠を出るとそのまま外階段に通じている。

    ドアの外でお絞り持って突っ立ているあの大入道に当て身の一つでも食らわしてやんな

 

八   よーしゃ、そうすっか。お兄さん、おまたせー。

 

  脾腹にボコ ウーン、ヘナヘナ 悶絶。

 

熊   あはは、あっけなくぶっ倒れやがんの。まったくこっちの世界の野郎どもはだらしがねえ。

    まるで心得がねえ。いくら太平の世が続いたって、いくさはいつ起こるかわかりゃしねえ。

    平和ボケもいいかげんにしな。隣国に虚仮にされるばかりだ。

 

八   兄い、外には出て来たけれど、さて、これからどうしようか。こっちの世の江戸は不案内だし…

 

熊   そうさなー。俺も住んでいる江戸の町と景色が全然違うから、かいもく見当がつかねー。 

    💡 そうだ。上野のお山に行ってみよう。

    あそこなら将軍様のご廟もあるし、不忍池もあるから、大抵のことは見当がつくだろう。 

    おう八、すまねえが町駕篭呼んできてくんねえ

                                                              

八   しかし兄い、こっちの町駕篭は便利だねー。

    駕篭かき棒の代わりに床下に丸い輪っかが付いていて、そいつが勝手にぐるぐる廻って、

    いやその早いことったらねえ、おまけに籠舁きのあんちゃんまで駕に乗ってきやがって、

    あっという間に広小路に着いちゃった

 

熊   ここが江戸名所図会にもあった不忍池の辺りけ、なんか石だらけのでけえ家ばかりで、人が随分多いな

 

八   兄い、あそこに池があるけど、あれが不忍の池かい

 

熊   おう、そうよあれが不忍の池だ。ほれ、あんなに都鳥が飛んでらーな

 

八   そういえば兄いは、確か俳諧とかをやっているから、どうでい、あの池で一句詠んでみたら

 

熊   そうさなー。こっちに来た記念にいっょうかましてみるか (しばし黙考)

    💡 出来たー。おう、八、よーく聞けよ。

    しのばずの桜や紅葉ホタル飛ぶ ってんだ。どうでい、いい句だろう

 

八   うーん、確かにいい句だけれど、不忍池と書いて、しのばずと振り仮名を付けるのは、

    俳人の甘えだって藤田湘子ってえ偉い先生が云ってなさったし、それに桜と紅葉とホタルと季語が三つもあるぜ

 

熊   けっ、だから素人は嫌だよ。いいか、よーく耳かっぽじって聞け、説明してやっから。

    桜も紅葉も季語だけど、この句の中で、桜が初めに出てきたろ、こっちが最初だから、これが長男で主季語。

    後から出て来た紅葉は次男だから長男の家来。だから季語としては働かないんだ。

    季語にも長幼の順てーもんが厳然とあるのよ。それに、ここからが肝心なんだけど、

    おめえ、桜は春の、紅葉は秋のもんだろー、そいつらがぶつかると、どうなる?

 

八   ……?

 

熊   だから、おめえーは馬鹿だってんだ。春の次の季節はなんだ。

 

八   夏にきまってらーな

 

熊   おう、そうよ。だから春と秋がぶつかると、その中間に夏が生れるんだ。

    それだからホタルよ。これが三男だ。

    これを俳諧では二物衝撃と云って、湘子先生ご推奨のしろものよ

 

八   ふーん、そんなものかね。それじゃ、不忍池と書いて、しのばずと読ますのはどうでい、

    振り仮名ご法度の俳諧宗匠もいるけど…

 

熊   八、ここは二百年後の江戸でい、ここでなに詠んでもばれる心配はご無用よ

 

八   さすがに兄いだ、読みが深い。いやー、感服、感服。

    ところで兄い、池の端の縁台でギヤマンの杯で麦酒飲んでやがる禿げ親爺がいる。

    ちょいとご挨拶して俺らも、ごちにあずかろうじゃねえか

 

熊   おう、そうだな。ちょうど喉も乾いてきたところだ。

    夜風に吹かれて一杯、きゅーっとやろうぜ

 

八   えー、もしもし旦那、今晩は。けっこうな夜風でござんすね。

    お侍の旦那とお見受けしやすが、ギヤマンの杯でご酒を召し上がるとは、誠にお羨ましい限り。

    どうです、少し、あっしらもご相伴てえ訳には、ペコペコ

 

親爺  (なな、なんだいきなり町人の格好した変なのが来た。失敬な奴だ。からまれたら嫌だから逃げようか。

     むむ、ちょっと待てよ。こんな不自然なシチェーションには何か訳があるはず。

     💡そうか、これはテレビのドッキリだ。何処かでカメラが回っているはずだ。ここで逃げちゃったら、

    ロケが没になってオンエアされない。おーし、ここは騙された振りをしてテレビに出よーっと)

 

    おおっ、いきなり何ですか、どうしたんですか。びっくりしました。

    でも、ビールなら奢りますからどうぞ、どうぞ  (ちょっと目を白黒させる演技)

 

熊   (ふん、侍のくせにびっくりしてやがる)

    おっ、これはどうも相済みません。厚かましいとは存知ますが、それでは一つお流れ頂戴ということで、

    おっと、と、と、グビグビグビ

 

八   あつしも一つ、おっ、と、と、 グビグヒグビ

    でも、旦那こちらの方々は皆さん、筒袖にカルサン袴やたっつけ袴ばかりで二本差しもされていない。

    まことに太平の世とお見受けしますデス。ご当代の将軍様は何という方でしょうかね

 

親爺  (さすが芸人さん、名前は知らないけど…将軍は誰かだって、徹底しているなー、ちょっと合わせてみるか)

    えーと、今の将軍は岸田文雄とか言いますけど…

 

熊   徳川ではねえんですかい。

    それじゃー、将軍家ご幼少につき、きっと老中筆頭かなんかが、その岸田文雄の守様なんでございましようね。

    でも何だか直ぐに失脚しそうなお名前でもござんすね。

 

親爺  ??? (なんか演技が真にせまつているのが恐い。

    もうそろそろ、ドッキリでしたー()、なんて種明かしがありそうなんだけれど、

    そしたら娘にパパ、テレビに出るよーってラインしなきゃ、うふふ)

 

熊   おう八、もうこんな時間だ。

    そろそろ行かなきゃ、それではお侍さん、ごちそう様になりまして、誠にありがとうございました。

    手前どもはこれにておいとま申し上げますデス

 

親爺  えっ、(きょとん、あたりをキョロキョロ)

 

八   熊の兄い、こんな時間ってなんでしたっけ、行く所なんてあったっけ

 

熊   ありゃ、切り上げる時の捨て台詞みてえなもんよ。別に意味はねえ。

    見ねえ、あの親爺、まだぽかーんとして辺りを見回してやがら、あはは。

    さーてと、上野のお山に登ってみるか

 

八   おいらの時代じゃ、まだこの辺りはお大名の上屋敷やお武家の家ばかりで、町人なんざあまり歩かない場所だけど、

    二百年後は人が大勢で夜でも明るいねえ

 

熊   おい八、見ねえ。お山の上に犬に綱を付けた侍の像があるぜ。

    この冬空に寒そうな格好をしやがって、よく見りゃ薩摩っぽの侍だぜ、

    しかも将軍家ご廟の方に尻なんか向けやがって、なんてえー野郎だ

 

八   兄い、まあいいやね。それより何かひどく疲れてきちゃった。

    初めは見るもの聞くもの珍しくて面白かったけれど、ちっとも心が楽しくならねえ。

    男も女も見る顔見る顔、みんな薄っぺらに見えて、やたらせかせかしてうるせぇし、ちょっと嫌になっちまった

 

熊   そうさなー。なんか世の中、そうとうにおいらの時代と変わってしまっているけれど、

    あんまり面白そうな世の中でもなさそうだ。だいいち、今の江戸の連中は顔に締まりがねえ。

    おい、八よ、そろそろおいら達の時代に戻ろうか。あんまりいい来世じゃなかった、てえことは勉強になったし…。

    そんじゃ、あばよってんだ。 終

 

 

 

 

 

編集子の勝手にコーヒーブレイク   2023年12月 ミモザ句会報より


 

今月もミモザ句会・納句座の句会報に、石田波郷の足跡を尋ねた相良研二氏による深い感慨の文章が寄せられました。

昭和の俳壇に大きな足跡を残された稀有の俳人を偲ぶエッセイとなっています。(信)

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  砂町に波郷を偲ぶ

                      相良研二

 

「江東も終戦後の二、三年が私にはひどくなつかしい。

あの焼跡の荒涼感、そこを訪れる正月も間近な師走の、虚無的な歳末感はいま思ふと得がたい人生風景であったと思ふ。」

と後年、波郷は書いている。

頃は同じ師走、砂町に行ってみたくなった。

もちろん、砂町界隈の景観が当時とは一変して、隔世の感があることは承知の上で、地下鉄東西線南砂町の駅に降り立った。

駅出口は大きな公園の中だった。

冬うらら、近くの保育園児があちこちと遊ぶ中を通り抜け、元八幡通りに出る。

この通りを辿れば道はやがて仙気いなり通りへと呼び名が変わる。

さらに真直ぐ行くと通りは明治通りにぶつかる。そこに仙気稲荷の祠が残っている。最初の目的地だ。

「気がむくとせんきの稲荷や元八幡の方まで永井荷風の随筆を思ひ浮かべながら歩くこともあった。…」

と石田波郷は自宅からこの辺りまで、荒涼とした焦土の町を散歩したと書いている。

                

仙気稲荷は万治二年(一六五九)にこの地を開墾の際、村の安全と五穀豊穣祈願のために祀られ、

疝気の病が治る稲荷として信仰を集めたという。

昭和二十年の空襲で焼失。

その後、仮宮が建てられたが昭和四十二年には習志野市へ転座、元のこの地に地元の人達が祠を建てた。

波郷が目にした祠は仮宮当時のものだった。

昭和二十年三月十日の東京大空襲で下町は文字通り灰燼に帰し、この江東区砂村辺りも一面の瓦礫の原と化し、

神社仏閣もあらかた焼失してしまった。

駅を出てこの稲荷まで、今は商店・事務所それに住宅や大小のマンションが立錐の余地なく建て混んでいる。

戦災当時の面影は何もない。

しかしよくよく見ると古い木造住宅がほとんど建っておらず、今もって町に巨木大樹の類の一本も

見当たらないことが往時の空襲の激しさを物語っている。

 

西空の横なす極み冬木なし

焼跡に仰げば寒の雁か

 

きっと波郷はこの祠に佇み、虚しいばかりに広すぎる空を渡っていく雁を見つめていたことだろう。

 

 大型トラックの行き交う明治通りを、弾正橋を越えて少し行くと清洲橋通りと交わる境川交差点に着く。

その交差点角が志演尊空神社で、その隣が波郷の元の住まい。

今は建て直された家が、どこかの企業の事務所兼住いとなっている。

そしてその家の隣が妙久寺で、波郷の家は神社と寺院に挟まれていた。

ちょっと見には何やらご利益のありそうな立地だが、実際はちがっていた。

「隣は妙久寺といふ日蓮宗の寺で、ここは二本の山門石と焼けくろずんだ墓石ばかりといふ荒れ果てた周囲だった」と語っている。

波郷の息子修太氏はこう書いている。

「東隣は神社、西隣は寺というありがたい環境とはいえ、志演神社は社殿も社務所もなく、御影石の石段が白く輝いているだけ。

反対側の妙久寺も山門は礎石を残して焼け落ち、墓地には焼けた墓石が転がり、骨壺がのぞいていた。

神社から寺にかけての焼け跡には動物の骨などが打ち捨てられたままで、神も仏もあったものではなかった。

生命力旺盛な雑草だけが、早くもそれらを覆い尽くそうとしていた」。

終戦直後、波郷一家はそういう中で暮らしていた。

 

↓妙久寺参道左側が墓地、右側植込み奥が波郷の家(当時)

 

  貨車寒し百千の墓うちふるひ

    野分中つかみて墓を洗ひをり

    墓原に入りて凧上ぐ吾が子呂と

墓に菊碧落の鵙はやあらず

   女来て墓洗ひ去るまでの鵙

   寒の鵙墓犇めきてあるばかり

 

いずれの句も砂町に移り住んでから清瀬の東京病院に入院するまでの句を収めた「雨覆」から。

隣の寺の荒れ果てた墓地の光景を波郷は真直ぐに見つめていた。

更にそれに続く「借命」に収められた次の一句

 

  霜の墓抱き起こされしとき見たり

 

は霜の墓が抱きを起こされたのを見たのか、それとも作者が抱き起こされた時に霜の墓を見たのか、

解釈の相違が論議をよんだが、波郷は自著「俳句哀歓」に、「白々と霜をおいた墓、

病み疲れた身を家人に抱き起こされたとき、窓外にその墓をまざまざと見た驚き、感動がこの句を生んだのである」

と明言し、一句の主人公は常に“われ”であるという立場から、異なる解釈を半ば憤慨の体で退けている。

自分もその場所に立ってみた。

波郷の居室があっただろう辺りから、妙久寺境内の墓地までの距離は約二十メートル位か、

今は山門から本堂までの道が盛り土されていて平らになっているが、墓地は今でもその道の一段下にあり、

仰臥の身を妻に抱き起こされた時に、霜のついた墓は十分に見えたことだろう。

それにしても霜で真っ白になった墓石を、そんな早朝に抱き起こす人もいないはずで、

そもそも霜の墓を抱き起こすという解釈には、もともと無理があったのではと自分は考える。

空襲の後、この妙久寺境内には近隣の三千人近くの焼死者が仮埋葬されたそうで、今も慰霊碑が建っている。

 

境内の植込みの一画には

 

  はこべらや焦土のいろの雀ども

 

の句碑が建っている。波郷の焦土諷詠の代表的な一句だ。

この句碑は生前に建てられた唯一の句碑だそうだ。

 

 波郷旧居に向かって右隣りに志演神社がある。

この神社は寛永年間からこの地にあったものが、近くの尊空神社と共に三月十日の空襲で焼失、

二年後に両社が合祀され志演尊空神社として再建されたもの。

波郷が入院するまでの期間は志演神社のままで、そしてその神社は廃墟であった。

修太氏は「終戦から三年半、砂町も徐々に家が建ち混み始めていたが、神社の再建までは手が着かず、

近隣との仕切りもない焼け跡のままの神社境内は、子どもたちの恰好の遊び場になっていた。

特に私たちの家は神社の隣だったから、境内は庭の延長のようなものだった」

と書き、さかのぼる昭和二十一年の砂町移転直後のことについては

「祖父はさっそく神社の一部を借り、麦やじゃがいもを植え始めた。

数年後、とりわけ生育のいい一画を掘り返すと、下から三十ばかりの白骨が折り重なった防空壕が現れた。

私たちは何も知らずに、そこに植えたじゃがいもを食べて育ったのである」と書いている。

恐らく波郷もそのじゃがいもを食べたことだろうが、病身の波郷はあまり畑仕事の役には立たなかったようだ。

 

  雷の下キャベツ抱きて走り出す

  梅雨明けの手かけてきしキャベツかな

  糞汲みの妻が夕焼にまみれたり

 

などの句を詠んでいる。

 

↓志演尊空神社 正面石段の右上に波郷が腰かけていた

 

清瀬の東京病院を退院して自宅に戻った波郷は志演神社の思い出についてこう記している。

「隣の志演神社の境内に上り、更に焼けた壇上に足を運び、高い石段に腰を下ろし、ステッキを抱いて、

草原や墓地や時々往来する貨車を眺める」「隣の志演神社には、私の必ず坐る場所ができてゐた。

仮社殿正面の石の右側の狛犬の下に腰かけて、玉垣のなくなった低い垣外を通る、車馬通行人を一時間も眺めたり…」。

 

  蟻下る石階はなほ焦土の香

  秋風の廃石階にわが座あり

 

波郷が砂町に暮らした入退院の期間を含めた十二年の中で、焦土諷詠として後世に残る句の数々は、

この廃墟の神社の石階から生まれたことだろう。

 

  束の間や寒雲燃えて金焦土

 

この句について、山本健吉は「現代俳句」の中で「この句は何の説明も要しないものだ。

束の間の夕焼け雲が、一面の焼け野原を金色に荘厳するのである。

「束の間や」という打ち出しが、たいへん強い響きを持っており、

それが「寒雲」とか「金焦土」とかいう漢語の持つ音調と、よく調和していると言える。

「寒雲」という語は、斎藤茂吉の歌集にもあるが、季語としてこの句ほど生かされた例を私はしらない。

「金焦土」とはおそらく波郷の造語であり、彼の慟哭の切実さを裏打ちしたような強い響きの言葉である」

と書いている。同感する。

波郷は、焼け跡の荒涼感、正月も間近な師走の、虚無的な歳末感は得難い人生風景であったと述懐しているが、

この感慨を金焦土と言い表しているのではないだろうか。

一切が廃虚と化してむきだしにされた人々。

しかしそれでもなお、自然の美はそうした生身の人々の、復興の営みを静かに荘厳している。

波郷はその思いを句にしたように自分には思える。

しばしの間、往時の波郷の心の内を偲んだこの志演神社も、今は真裏に十一階建てのマンションが建つとかで、

何台もの重機の地響きの中に揺れていた。

 

再び明治通りに戻り、城東警察署を過ぎるとすぐに砂町銀座通り入口に至る。

波郷の家からゆっくり歩いても十分とはかからないだろう。波郷の散歩コースの一つだ。

「ひとり何を買ふあてもないのに砂町銀座を通ってみることもあったが、忙しく行交ふ砂町の住人達の間を、

ふところ手でぶらぶら歩くのはいかにも恰好がわるいやうに思はれた」

という散歩は、最初の退院後の昭和二十五年以降のことだろう。

 

  ひとり寒し砂町銀座過ぎるとて

  柚子買ひしのみ二人子を連れたれど

 

と詠んでいる。

 

師走も半ばにかかる砂町銀座はさぞ人出も多いのではと思ったが、そうでもなかった。

ちょうど昼時だし、別に観光化されているわけでもないので、のんびり地元の人たちが惣菜店を覗いたり、

あか抜けない吊るしのおばさん服を選んだり、そぞろ歩いているばかりだった。

砂町銀座の中ほどを左に折れるとすぐに砂町文化センターがあり、二階に石田波郷記念館が設けられている。

等身大の波郷写真像が入口に立っていて、館内には波郷遺愛の眼鏡や借命と彫られた愛用のステッキ、

自筆色紙や原稿など資料諸々が展示されている。

がらんとした館内をめぐっていると、老人がふたり入って来た。

その内の片方が「短歌は全部言ってしまうけど、俳句はそうじゃなくて…」と声高に話し出したのを機に記念館をあとにした。

↓砂町銀座通り

 

砂町銀座をもとに戻り、明治通りを突っ切り、砂町五差路を小名木川方向に辿ると、

その先に東京大空襲・戦災資料センターがある。

東京の下町を全て一夜にして焦土と化し、砂町を廃墟の原とした惨劇の実態を知らなくては、

波郷の焦土諷詠を深く理解することは出来ないと思っていたので、最初から訪れる予定だった。

三百円を払い館内に入ると、戦時下の日常、空襲の実相、証言映像の部屋、空襲後のあゆみのテーマ別に分かれている。

その一つひとつを見て回った。小一時間ほどいたが、その間、自分以外には誰も見学に入っては来なかった。

証言映像の部屋から流れる生々しい証言の、エンドレスの音声が虚しく流れるだけで、誰もそれを聞いている人はいない。

無辜の民が火だるまになって死んでいったこの空襲は、明らかに米軍の焼夷弾による、阿鼻叫喚の虐殺以外の何物でもない戦争犯罪だ。しかし、敗戦国の日本がそれを表立って糾弾することはなかった。

そして今の自分も、それと同じことが現在のパレスチナのガザにおいて、実際に起きていても、

その悲惨を茶の間のテレビで、ただ漫然と見てるだけなのだ、と強く自覚した…。

館を出た後、自分は少し重い気分を抱えながら、せっかくだからと、亀戸天神まで歩くことにした。

 

                           終                    

参考・引用

「現代俳句文学全集 石田波郷集」石田波郷

「俳句哀歓 作句と鑑賞」石田波郷

「石田波郷の俳句 雨覆の世界」村沢夏風

「季題別石田波郷全句集」角川学芸出版

「現代俳句」山本健吉

「わが父波郷」石田修大

 

 

 

 

 

 

 

編集子の勝手にコーヒーブレイク


 皆様には毎度お馴染みとなりました座敷わらしレポートが届きました。ミモザ句会幹事の相良研二さんの旅散策のエッセイです。

座敷わらしくんの少し冷めた眼で親父さんを見ているところ、ユーモア(?)がなんとも面白いですね。

「その一」に続き、「その二」は嵯峨野俳句会での作句ルール、を座敷わらしくんが解りやすく説明してくれていますので、

特に新会員の皆様におかれましては、是非、お目通しくださいませ。

因みに、相良さんは、今年度の嵯峨野賞応募の受付窓口(ご担当)もされておりますので、、、、、。

では、少し長文ですが、お楽しみください。(信)

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                                                    2023年11月23日 

座敷わらしレポート                             相良研二

 

その一 佐久・小諸懐古園

 

おやじ殿がまたどこかへ行くらしい。どうもこのご仁、尻が軽いというか落ち着きがないというか、

意馬心猿のごとく定まるところがない。

なんでも、ふっと温泉にでも入ってみたくなったとか、それでも決まったあてがあるわけでもないので、

とりあえず長野県に行くようだ。

何故かおやじ殿は長野県が大好き。長野県人でもないし別に特別な理由があるわけではないけれど、

強いていえば長野県人の気風とか自然が好きというところか、朝発てば昼頃には県内のどこにでも行けてしまう。

今回はとりあえず佐久に行ってみるつもりで、出かける直前にホテルも予約した。 

東名から圏央道、中央高速を須玉で降りて清里を過ぎ、八ヶ岳を左に見ながら佐久甲州街道を佐久へ。

晩秋の澄みきった青空に八ヶ岳の峻烈な峰々がジオラマ模型の様にはっきりと浮かび上っている。

句を捻り出すには格好の景だし、芭蕉も「東海道の一筋しらぬ人、風雅におぼつかなし」と、

旅の実際を体験しなければよい句は詠めないと云っているけれど、もとより才のないおやじ殿は眼前に

どんな絶景があっても旅吟は、はなからするつもりがないらしい。 

                  ↓佐久貞祥寺晩秋

佐久では最初に貞祥寺に行ってみた。

このお寺は大永元年(一五二一年)創建の曹洞宗の禅寺で県内でも指折りの古刹、今でも海外から禅の修行にくる人もいるとか。

特に夏の青苔と秋の紅葉が有名、時季によっては多くの人が訪れるけれど、おやじ殿が行った時は紅葉も終りの頃で

境内に人の気配はなく、ひっそりと静まり返っていた。

重厚な総門や小ぶりな三重塔に散り残る紅葉、句ごころをそそる景だけれども、おやじ殿は句帳を取り出さない。

小六月の陽気の中でただぼーっと薄口を開けているばかりだ。境内の一画に人間魚雷回転の模型と碑があった。

回天を開発した仁科少佐は佐久の出身で、自らも回天に搭乗し戦死したとか。

その御霊を慰めるために建立されたそうだが、こんな長閑な田舎にも先の大戦の傷は深く刻まれている。

境内には俳句ポストが設けられてある。苔の寺として、又もみぢの名所でもある為だろう。

おやじ殿は矢庭に尻のポケットから句帳を取り出すと何やら書きつけ、投句用紙に写し投函した。

僕がちょいと覗いてみると「黙深き回天の碑に冬日濃し」とあった。

句の出来の良し悪しは別として、おやじ殿としては祖国に殉じた英霊に対する精一杯の献句のつもりなのだろう。

ここには小諸の教師時代の島崎藤村の旧居も移築されているけれど、こちらは外観しか見る事が出来なかった。

 

次におやじ殿は佐久五稜郭に行くことにした。

途中の佐久甲州街道(佐久往還)と富岡街道の交わるところには旧野沢宿があって、そこに建つ成田山薬師寺の参道には、

近郷近在に知られたピンコロ地蔵が祀られていて、お年寄りの人気スポット。

元気に長生き(ピンピン)して寝込まず大往生(コロリ)出来るとか。

おやじ殿も寄ってみようかな、なんて考えている。

だけど、僕はおやじ殿のこれまでの素行のあれこれを鑑みる時、おやじ殿が祈願しても、お地蔵様はきっとピンピンは

省略しちゃって、コロリ優先にしちゃうと思う。

おやじ殿もその危険性を察知して、どうやらピンコロ寺には寄らないようだ。

九十七歳、要介護マックス五の認知症の母上を施設に預けたままでおやじ殿が先にコロリしちゃつたら、

たぶん奥さんに尻でも蹴られそうだから、この判断は正解だと僕も思う。

  佐久五稜郭は正式には龍岡城五稜郭と云って、函館の五稜郭とともに日本に二つしかない星型の濠をもつ洋式城郭。

 江戸時代末期に田野口藩主の松平何とかさんが造った陣屋。

 現在は跡地がそのまま小学校になっており、往時を偲ばせるものは堀と石垣とお台所と称する建物の一部があるだけ。

 近くに資料館があっておやじ殿もちょっと覗いてみたけれど、まあ、城の模型とか年表とありきたりの物の展示で

 あまり興味を引く物はなかった。

 資料館内では五稜郭の草木の手入れをするためだろうか、シルバー人材センター派遣みたいなおじいちゃん、おばあちゃんが

 のんびりお茶をすすっていた。

 おやじ殿も自販機の缶コーヒーをすすってぼーっとしている。

 

 今夜の宿の某温泉の「某ホテル」は、佐久平のはずれの山裾にあった。

 自然体感型のリゾート施設もある大きなホテルだけれど、何となく裏ぶれている。

 いつも裏ぶれているおやじ殿にはぴったりの宿だけれど、料金の安いのと露天風呂の写真に魅かれてネットで

 適当に予約しただけのこと。

 ホテルには本館や別館の他に体育館、プール、研修ホールがあり、隣接してバーベキューガーデンやゲートボール場、

 テニスコートも併設されている。

 そのどれもこれもひっそりと、テニスコートなどは草茫々で、完璧に裏ぶれている。

 恐らくバブル期の頃に企業や学生などの団体旅行をあてこんで規模を拡げた、その成れの果てだろう。

 こうした施設は全国のリゾート地には結構あって、そのどれもこれもが廃業寸前に追い込まれているそうだ。

 

 実を云うとおやじ殿はこうした廃業の瀬戸際にある旅館、ホテルが大好き。

 罅の入った外壁を伝う蔦紅葉、塗装の剥がれた白壁や照明を落し寒々とした廊下、埃を被ったようなお土産コーナー、

 片付けられた卓球台、 ほとんど人のいないフロントなどなど、往時の賑わいの跡を残しながら、

 今まさに滅びゆくものの醸し出すものの哀れが大好き。

 とても風情を感じる。

 おやじ殿のとまった部屋はこのホテルで一番いい部屋だったけれど、思わず「ちっちゃ」と口に出るほど小さいテレビ

(もちろんBSは映らない)無駄にでかいベッド、大きな窓の外側の上には、毀れかけたスズメバチの巣がぶら下がっている。

 その窓の外は絶景とは程遠い、ただの少し荒れたような田舎のごく普通の秋の物寂しい景色がひろがっていて、

 このホテルには 相応しい。

 自然の移ろいに感じる哀れもいいけれど、人の世の盛衰の哀れも詩情としてはとてもいいものに思われる。

 写真では広く快適に見えた露天風呂も尻を沈めれば、底に降り積もった落葉が湯の中をゆらゆらと上がってくる。

 風呂の手入れなんかほとんどしないのだろう。紅葉や椎の枯葉なんて湯壺に入り放題で、湯の中を再び舞っている。

 夕食はがらんとした食堂で、まばらな客と食べたけれど、明らかに鮮度のない鮭の刺身の横たわったものや、

 すき焼きの皿の二枚の牛肉の下に隠れた豚肉と鶏肉、銀杏の入っていない茶碗蒸しなど、そのつつましさがなんともいい。

 普通、旅館などの晩飯では、それほどでもない料理を皿数を増やしたり見てくればかりを気にして、さも豪華そうに

 見せるけれど、ここのホテルでは、もうこれが精いっぱいですという感じで正直に料理を出すところがとてもいい。

 すぐ世の中を反対側から見たがるおやじ殿にはぴったりのホテルで、おやじ殿は大変満足。

 これだけは本当に美味しい地酒を二本も飲んで幸せそうな眠りについた。

 

 翌日は佐久から小一時間ほどの小諸の懐古園に行ってみた。

 佐久からだと雄大な浅間山へ向かっていく感じで景色には大いに恵まれた。

 懐古園に行くのはこれで四回目。

 お目当ては懐古園の一画にある動物園。

 ここにはアネハヅルが飼育されていて、この鶴はヒマラヤ山脈を越えて渡りをする。

 数千メートルの高度を気流に抗い飛ぶのだから小振りながらとても剽悍な眼をしている。

 その鶴を見たかったけれど、残念ながらもういなかった。

 それで、ただ城跡の石垣などを見るとはなしに見てぶらぶら。

 もちろん、句帳は取り出さない。

 園内では菊花展が開催されていて、懸崖仕立、三本立、ダルマ、盆栽花壇などの作品が並び大勢の人が観ていたけれど、

 おやじ殿は総理大臣賞や知事賞、市長賞なんていう名札がついていても、ふ~んなんて言う態度で、何にも感じずに

 通り過ぎてしまった。

 そもそも菊花の鑑賞に余り関心がないので、好事家にはたまらない逸品でも全然興味がない。

 菊と云えばむしろ、路傍に咲く野紺菊や庭隅にひっそりと佇む小菊の方がいいなと思う程度。

 しかし、翻って考えると俳句もそうだ。

 俳句でどんなに大きな大会の賞、例えば角川全国俳句大賞なんていうのを受賞したとして、その世界では飲めや歌えやの

 大騒ぎで俳句雑誌に盛んに載っても、俳句に関心のない人には、やはりふ~ん程度の冷めた反応しかないだろう。

 人間、それぞれの興味・関心の在りどころで見渡す世界の景色も変わってくるということなのだろう。

おやじ殿は早々に懐古園を切り上げると、途中で林檎と行ってもいない小布施の栗羊羹をお土産に買って蓼科高原を抜け、

諏訪で中央高速にのって自宅までノンストップで帰ってしまった。

僕は、おやじ殿はいったい何のために佐久まで行ったのだろうと思うけれど、佐久からの浅間山の風景は絶品、

温泉も多いし宿場跡や史跡がまだまだあるので、佐久にはまた行ってみようとは思っているみたいだ。

 

その二 嵯峨野俳句の決まり事

 

もの覚えが悪いくせに、覚えたら覚えたですぐ忘れるおやじ殿のために、

これまで嵯峨野ではご法度になっている表記上の「べからず集」をちょっとまとめてみるね。

 

      俳句は原則文語を用い、表記は旧仮名遣いとします。

      句に前書きや脚注はつけません。

      括弧や鉤括弧は用いません。

      踊り字(「々」や「ゞ」などの記号)は用いません。

      片仮名は原則外来語のみに用います。

 ◎これらのことは毎月の出句に関してたけではなく、嵯峨野俳句会での俳句活動全般に関する方針です。

  嵯峨野俳句大会の出句や、年度賞の出句に関してもこの方針を守って欲しいと思います。     平成二十九年六月号詠花吟月

 

 ◎嵯峨野俳句会では俳句は旧仮名遣いで書くことになっていますので、

  間違いなく旧仮名で投句していただきますよう 宜しくお願いします。

 

 ①新仮名でのア行やワ行が、旧仮名ではハ行で書かれることがあります。

   例「かう(買う)」→「買ふ」。「やわらかい(柔らかい)」→「やはらかい」

 

 ②新仮名でのア行が、旧仮名ではワ行で書かれることがあります。

   例「いる(居る)」→「ゐる」。「おる(居る)」→「をる」

 

 ③新仮名での「じ」が、旧仮名では「ぢ」で書かれることがあります。

   例「もみじ(紅葉)」→「もみぢ」

 

 ④新仮名での「ず」が、旧仮名では「づ」で書かれることがあります。

   例「みずから(自ら)」→「みづから」

 

⑤新仮名でオ段の音+「う」が旧仮名ではア段の音+「う」になることがあります。

  例「ふきのとう(蕗の董)」→「ふきのたう」。「そうぞうしい(騒々しい)」→「さうざうしい」

 

 ⑥新仮名の「か」「が」が、旧仮名で「くわ」「ぐわ」になることがあります。

   例「さざんか(山茶花)」→「さざんくわ」。

 

   初心者のかたは一つずつ覚えるようにして下さい。                  令和元年五月号詠花吟月

 

 ◎嵯峨野俳句会のルールによれば「俳句は季節順に並べる」となっています…        令和二年十月号詠花吟月

 

 

  その他、嵯峨野俳句会では句にルビをつけない和語由来の言葉はカタカナにしない

   例えば薬缶をヤカンと表記しないなどだね。

 

  他の結社によっては、踊り字や括弧付き、ルビなど全然オーケイなんていう結社もあるけれど、

  嵯峨野にいる限り、こうした嵯峨野のルールは守りたいもの。

 

  特に入会間もない会員や初心者には折に触れ、機に応じて先輩がその都度責任をもって教えていかなければね。

  特に最初の①から⑤は大事だね。

  句会出句でも時々見かけるから…。

  おやじ殿も、バカはバカなりに嵯峨野でお世話になっているのだから、句会で知らない人がいたら伝えてあげてね。

 

 

 

 

 

 

ハマ展に入選しました。


2023/10/26  俳誌嵯峨野の表紙絵の作者・益田富治氏から「ハマ展」に入選された絵画の画像付メールを送っていただきました。

今年のプロ野球セ・リーグ優勝・阪神タイガースのファンで賑やかになった場所、大阪の象徴として、あまりにも有名な景色ですが、。

いろいろな想像の膨らむ作者の絵画を、しばしお楽しみください。できれば、画像を拡大していただければ、幸いです。(信)

 

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「私の絵が今年のハマ展に入選しました。下の絵です。大阪南の独特の灯りです。

場所は道頓堀。ビル全体が広告塔になります。色も派手。

 

大阪の子は芸達者子供の日 という句が嵯峨野にありました。

 

 

私の句ではありませんが、そんな気がする光景です。」

ハマ展には皆な2枚出します。もう一枚の絵はわが家の前で8月開催される

 

花火大会の絵です。

 

 

 

ビジター


2023年9月 ミモザ句会報に寄稿された松尾憲勝氏のエッセイをご紹介いたします。

音楽をこよなく愛される氏の日常に、嬉しいお客様が訪れました。さて、どのようなお客様(?)が、、、、。(信)

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月に一度のカラオケの会でお世話になっているMさんから、市のボランティアで

拙宅の近くを通るので、ことによったら寄るかも知れないとのお話をいただいた。

およそ来客のない、一人住まいなので多少のとまどいもあったが、心よくお待ちする

ことにした。

 何も持てなしは出来ないが、せめて狭庭の草だけはむしって置こうと、MJQのモダン

ジャズを聴きながら一休みしていると、イタリアンカラーの真っ赤な車が止まった。

 

Mさんとぬいぐるみの様な黒い犬が助手席にちょこんと座っている。

室内犬を飼った事のない私は恐る恐る抱えると、旧知の仲みたいにすぐなついてくれた。

犬好きな私へのMさんのサプライズだ。

 

 築五十年の木造の土間と板の間が言わば居間兼応接間だ。

郊外の高層マンションにお住まいのMさん、プードルのイブちゃんは戸惑いも見せずに

私にアイコンタクトをしてくれた。

ブルドックや甲斐犬などを飼っていた私は思いもよらぬフレンドリーな仕草に感動した。

 

私の手造りのオーディオの音にMさんもイブちゃんも、昔のビクターのテリアのように

耳を傾けて下さった。

料理自慢のMさんは、まるでお節料理のような立派なお重をプレゼントして下さった。

 

敬老の日も近いある日の午後の嬉しいうれしいビジターでした。

 

 

 

 

 

 

編集子の勝手にコーヒーブレイク


2023年9月のミモザ句会報にて、皆様お待ちかね、相良研二氏の短編小説「或る日の芭蕉」が掲載されました。研二氏は、座敷わらしレポートでもおなじみですし、毎回楽しいストーリーを書いていただいておりますが、今回は渾身の「力作」ではないかと感じました。ということで、少し長めですが、お楽しみいただけましたら幸いです。おすすめです!(信)

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ショートストーリー                        

      或る日の芭蕉

                    相良研二

那須の黒羽といふ所に知る人あれば これより野越えにかかりて 直道を行かんとす 

遥かに一村を見かけて行くに 雨降り日暮るる 農夫の家に一夜を借りて 明けくればまた野中を行く

そこに野飼ひの馬あり 草刈る男に嘆き寄れば野夫といへどもさすがに情知らぬにはあらず

 「いかがすべきや されどもこの野は東西縦横に分れてうひうひしき旅人の

  道踏みたがへん あやしうはべれば この馬のとどまる所にて馬を返したまへ」

と 貸しはべりぬ 小さき者ふたり 馬の跡慕ひて走る ひとりは小姫にて 名を「かさね」といふ

聞きなれぬ名のやさしかりければ 

 

 かさねとは八重撫子の名なるべし 曾良

 やがて人里に至れば 価を鞍壷に結び付けて馬を返しぬ

 

「昨日に続き今日も相も変わらぬ野原続きでござりますなあ。

 師匠、お疲れではございませんか」

 

「曾良、実を言うと少し脚が痛うなってきた。

今朝出立して間もないというに、情けないことよ」

 

「日光ではお山に登り、裏見の滝まで足を伸ばされたせいでございましょう。

もう一日、先の百姓家にとどまってもようございましたな」

 

「いやいや、黒羽に待っているご仁もござれば、そうもいくまいて」

 

「それにしても草に覆われた細道ばかりで、どちらが黒羽の方角か、

少し迷ったとも思われます。これは厄介なことになりました。

この辺りは夜になれば狐狸のたぐいも多く野盗も出るとか、なんとしても

日のあるうちに通り抜けたい原でございます」

 

芭蕉と曾良が江戸深川を発って早や五日、千住大橋で見送りの弟子達とも分れ

草加宿から最初の歌枕の地、室の八島の大神神社を詣で、日光東照宮や黒髪山を巡り、

今、茫々たる那須野ヶ原にさしかかっている。

 初夏の陽射しを受け伸び盛りの草草の丈越し遥かに、茶臼岳や三本槍岳など那須五峰

の山並みも、薄々とたなびく霞の上に浮かんで見える。ようやく旅をしている実感に

馴染んで来たとはいえ、この捉えどころのない那須野ヶ原の広がりに身を置くと、

かえって旅の心細さもまたひとしお募ってくる。

 

芭蕉は思った。

この旅の心細さの味わいこそ、実は自分が求めていたものではなかったかと、

都の中に仮初めとはいえ寝起きしていては気付くことさえできない心細さ、

それに自分は憧れていたのかも知れない。それが旅立の本当の動機なのだとも。

この旅の前にも数次の旅を経験してはいるが、その思いはこたびもまったく

変わらなかった。

己の脚が止まってしまえば、そのまま草に倒れ地に伏し、直ちに白骨と化す心細さは、

やはり旅に出て見なければ分からない。

そして芭蕉はこうも考えた。

人はなぜ歌や句を 詠むのだろう。

多くの弟子を抱え、また多くの人に俳諧の道を説く身として、その表層に風雅を愛で趣味に

遊ぶ心があることは承知していても、なお己も含めてこの世の生業をかけてまでのめり込む人もいる。

 

俳句とはそれほどのものだろうか?いや、それほどのものなのだろうとも…。

俳諧師として人の上に立ち名をも知られた今となっては、決して口には出来ない素朴にして

根源的な懐疑をずっと秘めていた。

己が句を詠むことの胸中の深層には、人の世にあることの心細さ、不確かな存在であることへの

怖れをかき消すための、それは方便だという気づきも芽生えて来た。

自分でもはっきりしないその答えを探るためには、実際に旅に我が身をさらすしかないではないか。

その思いは旅に出るごとに、ますます大きく膨らんできた。

夏に向かって万物の溢れるばかりの命の謳歌の中で、伸び行く草の上に足を運びながら

芭蕉の自問は続く。 

 

「師匠、ほれあれをご覧ください。

馬が繋がれております。訳を話せば借りることも出来ましょう」

 

曾良の指さす一町ほど先で、木立に馬をつないだ農夫がのんびりと草を刈っている。

この辺りは源平の世の頃から馬の産地として知られている。

きっと秣にでもするつもりなのだろう。

傍らで小児がふたり、無心に遊んでいる。

 

 「お百姓、ご精がでますの、ちとお頼み申したいことがあって、よろしいかの」

曾良は被っていた網代笠をとると少し腰を折って農夫に呼びかけた。

刈りとった草の穂をしごいては荒縄で束ねていた農夫は、顔を上げると深々と挨拶を

返してきた。

きっと曾良の姿を見て旅の僧とでも思いこんだのだろう。

見かけの齢はとうに六十を過ぎていていそうな農夫は、その顔貌も、はだけた胸も

両の腕も鞣皮のよう陽に焼けてはいたが、頑丈そうな五体に似合わずに表情は純朴

そのもので、農夫の穏やかで慇懃な物腰に安心した芭蕉と曾良を、ふたりの童児が

じっと見つめている。

 

 「私どもは黒羽の余瀬村に人を訪ねてゆく者ですが、連れが脚を痛め難渋しております。

  それに道にも迷いました。

よろしければ、そこのお馬をお借りして、また道もお教え下されはありがたいのですが」

 

 「それはお困りでごいましょう。馬をお貸しすることはわけもないこと、

  もともと荷馬ですがおとなしいたちで人も乗せますので」

 

 「これはまことにもってありがたいお言葉、お代はいかようにも。

して、黒羽に向かうにはどの道をゆけばよろしいので…」

 

 「さてさてそのこと、ここいらは原の中を小径が縦横に走り、加えてけもの道もござれば目印もなく、

  不案内の旅の方にお教えしてもなかなか得心してもらえぬこと、さて如何したら…」

 

 「それほどにこの那須野ヶ原が分かりにくい所とは知らなかったしだい。まことに困りました」

 

 「旅の方には申し上げ難いことながら、土地の者共は、この原のことを行倒れの原とも内々に申しております。

  そこここに塚がございましたろ、あれらはこの原にて亡くなった旅の方や遍路の墓でございます」

  農夫は考え込んでしまった。

その時、話を聞いていた女の子が口を開いた。

きっと、この農夫の孫なのだろう。

利発そうで黒目のくりくりとよく動く顔が可愛らしい。

 

 「おじいちゃん、ノズルは余瀬村の見える四辻の松までひとりで行って帰ってこられる

から、ノズルに案内させたら、ノズルに乗って行けばいいだけのことだから」

ノズルというのはこの馬の名前らしい。

農夫がぽんと手をたたいた。

 

 「おお、まことにまことに。この馬は利口者で余瀬村の近くまで行って帰ってくるなどは

  簡単なこと、安心して馬の道案内に任せなされませ」

 

芭蕉と曾良は日のあるうちに余瀬村の桃翠宅に着く目途もたち深く安堵した。

 

芭蕉は馬の背に揺られながら、また先ほどの思いに戻って行った。

旅の心細さのすぐ隣に死があるという漠然とした己の考え、それは句を詠むことと、

どこか底辺でつながっているのではないかという思いに、農夫の話がかぶさるように

蘇ってきた。

「この原は行き倒れの原…」、そういえばこの原に踏み入ってしばらく行った時、

古ぼけた道祖神の傍らに半ば傾きかけた塚があり、そこに何々信女と刻まれていたのは、

そこで亡くなった旅の女の墓ではなかったか。

死が身近にある旅に、人はなぜ危険を冒してまで出かけてゆくのだろうか。

世の人のよんどころのない目的の旅の数々はいざ知らず、己のような獏とした目的の旅に、

自分はなぜ彷徨い出たのだろう。

表向き、世間には歌枕を訪ねる風雅の旅と、またこれまで結んだ俳縁の人々を訪ねる

懐旧の旅と云い、世間はそれで納得もしたけれど、実は句を詠まんとする己の心の有り様を探りかねて、

その苦しさ故の、世を過ごす己の息の乱れに戸惑っての旅立ちではなかったのか。

この、みちのくへの旅に先達がいなかったわけではない。

 能因法師、宗祇、そして西行。

連歌師宗祇は旅の途中「世にふるも更に時雨のやどり哉」と詠んだけれど、

頼りなき旅に流離う身の危うさを、かりそめの一瞬のこの世ながら、

そこに生身を置く苦しさを思わず嘆いた宗祇の心模様を、旅の緒についたとばかりとはいえ、

今の己は十分理解することがでると芭蕉は思った。

そして禁裏を守護する北面の武士として、華やかな都に暮らしていた歌人西行が突然出奔して漂泊の旅に出た、

その遁世の心の内は芭蕉の分けても知りたいところではあった。

追いすがる自分の娘を階より蹴落としてまでの固い仏道発心の後にも歌を詠み続けた西行の懊悩とは…。

そう、この旅は西行法師の足跡を追い、その心のうちに推参する旅でもあるのだろう。

そして、この旅は心の内に湧きおこった、何ゆえに句を詠もうとしているのかという、

芭蕉自らの問いの答えを探り当てるための旅でもあるのだろう。

俳人芭蕉の原初的な自問は果てしなく深みへと落ちてゆく。

 

 「おじいちゃーん、坊っ様ぁー」

 その声に振り返ると、先ほどの童子ふたりが追いかけてきた。おじいちゃんとは齢四十八になる芭蕉のことらしい。

 まだまだ壮年のつもりも、童の目には老人に映るらしい、坊っ様とは僧体の曾良のことか。芭蕉は少し微笑んだ。

 「じっちゃんがこれ持ってけって、ノズルはね、臍を曲げると動かなくなるの。

  そんな時は、ほれこれ、胡瓜をかじらせるとまた歩き出すの」

息を切らしながら少女は曾良に胡瓜を差し出した。

隣りにいる男の子は兄だろうか、妹にひきかえおとなしいたちのようだ。

 「この馬の名前は私がつけたの、ノズルというのはね、呑気でちょっとずるいから、

だからノズル。ノズルはね、荷馬のくせに重いものは大嫌い。

俵なんか幾つも載せると動かないの。

だから刈草とか人とか軽い物しか載せないの、ね、ずるいでしょ。

でも、私、この馬が大好き。だって私が生れる前からいるんだもの」

屈託なく話しかけて来る少女の可愛らしさに、曾良は笑顔で応えている。

「名をなんといわるるか」

 「わたし?私はかさね、かさねっていうの」

 「ほお、かさね、とは…」

芭蕉は思わずその雅な名前に感嘆すると、改めてその少女を馬上から見つめ直した。

着古したとはいえ決して垢じみてはいない藍染の木綿絣に赤い麻帯を蝶々結びにした

少女は、浅黒いが整った顔を二人の旅人に向けている。

かかる辺境の地に来て耳にした、その優しげなる名前に芭蕉は軽い感動さえ覚えた。

それは東国の野に臥すような暮しを送る貧しい農民の中にも、吾子に雅な名前を付ける

奥ゆかしき人のいることへの感動でもあった。無邪気になんの警戒心も抱かずにいる

子ども達を見ていると、芭蕉の胸中にある得体の知れない煩悶に一粒の透き通った滴が

落ちてくるような安らぎさえ覚える。

西行は出家遁世の折、己の子どもを蹴り落したと言われるが、芭蕉は目の前の少女を見るにつれ、

自分には、そのような真似は決して出来ないだろうと思った。

そう思った瞬間、芭蕉の心は少し軽くなった。

 

 ようやく余瀬村の家影が見えるところまで来た芭蕉はそこで馬の鞍に多めの礼金の入った小袋を

取り付けると馬の尻を軽く叩いた。馬はゆっくりともとの道を戻っていく。

おそらくこの土地では馬の鞍についている小袋の金を盗むような者はいないだろう、

芭蕉はそう確信した。そんな土地柄なのだ。

「師匠、先ほどの小姫の可愛かったこと、かさねなどという鄙には珍しい名前も面白うございましたな。

即興で、かさねとは八重撫子の名なるべし と詠んでみました」

日のあるうちに村に着けた安堵からか、曾良がほっとした面持ちで一句吟じた。

子どもを撫子に例えることは昔から知られたことで、この何の工夫もない句も、

それ以上の作意を求めない有り体の句だけに芭蕉には面白く聞こえた。

 

初夏の日差しのようやく翳りを見せ始めた空に一片の雲が浮かんでいる。

この空の先にはこれから芭蕉が歩を進めようとしている東国の、まだ見知らぬ茫洋

とした景色が広がっているはずだ。

このみちのくのへの旅がもしかすると己の最後の旅になるかも知れない。

己の心に生じた空隙を果たしてこの旅で埋めることが出来るのか、芭蕉は軽い眩暈を

覚えながらも草鞋の緒を強く締め直した。              終

                      

                     

奥の細道の中で、那須野が原での記述が編集子の一番好きなシーンです。

芭蕉は草加宿の場面で、

奥羽長途の行脚ただかりそめに思ひ立ちて、呉天に白髪の憾みを重ぬといへども、

耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけて

 

と旅の目的と覚悟を述べていますが、その旅は決してかりそめの物見遊山の旅ではなかったと思います。

昔の庶民の旅は今では想像できないほど困難や危険を伴い、死もすぐそばにある旅だったと思います。

それでも芭蕉を旅に駆り立て彼の心の焦燥を勝手に想像してみました。

 

 

 

 

京のおかし歳時記(御菓子司 中村軒) 第274回 俳句


今月は、以前も掲載させていただきました京都桂離宮前の老舗和菓子屋・中村軒の中村優江(まさこ)さんの紹介文を掲載させていただきます。優江さんは昨年12月に句集「桂」を上梓され、現在、嵯峨野の誌上句会の選者をされております。

 中村軒ホームページの記事をご覧になる方は、こちらをクリックしてください。(信)

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京都生まれの京都育ち、和菓子屋に嫁いで?年のマサコはんが、京都のお菓子にまつわる伝統や行事をおもしろくご紹介します。

 

274回  俳句

 

何をしても中途半端な私が俳句だけは40年も続けてます。

先生や句のお仲間のおかげなんやけど,忙しい私にとって句会に

出かけんでも出来る事、生活を詠める事、病気になっても病院で

作句できる事、そして楽しい時より寂しい時、悲しい時のほうが

良い句が出来るのが「俳句の御利益やわあ」と思っています。

 

私たちの先生は「俳句は発見と感謝」と言うたはる。

40年間の俳句を句集にしたら」と勧められて今までの句をまとめ

たんやけどなんでか、お饅頭の句が少ないのんです。毎日見てると

新鮮な気持ちにならへんのか?いやいや毎日美味しいおもてるけどなあ。

 

お菓子の名前はその季節にちなんだ名前をつけることが多い。

例えば、桜餅、よもぎ餅、夏は紫陽花、水ようかん、水無月、秋は栗餅、

月見だんご、冬は水尾(柚子の上用)、椿餅、雪うさぎなどなど。

これらはみんな俳句の季語です。これらのお菓子を詠んだ句も沢山

あって季節にそのお菓子を作るとき有名な句が思い出せたりすると

俳句をしてて良かったわあと思うのんです。

 

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  持ち歩くかばんに今日は桜餅    村山古郷

 

私の大好きな句です。お店に桜餅が出てるのをみてああもう春なんや。

いつもは書類しか入ってないかばんに買った桜餅がある。奥様の喜ばれる

様子まで目に浮かぶ句で春が来た喜びも伝わって来る。

 

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  にはとりが覗いてをりぬ日向水    優江

 

盥に水をいれて日中日向に置いておくとお湯になる。草刈をした後に

手足を洗ったり行水をしたりもした。田舎の家では、にはとりを飼うてて

にはとりが首をかしげて覗いていたのが昨日のようにおもいだされる。

 

 おばあちゃんは夏が来ると電球を暗いのに変えはる。「お部屋が涼しそうやろ」

とゆわはるけど私は「暗い暗い」とゆうと「夏ははよう夜が明けるさかい

朝にお勉強したらよろしい」と言われてしもた。

おばあちゃんは夏休みには御自慢の水ようかんを作ってくれはった。

3日程前から用意に掛かる。寒天を水につけたり小豆を炊いたりと手間を

かけると口溶けのええ美味しい水ようかんが出来上がる。中村軒の水ようかんと

おんなじお味。。昔は慎ましい中に幸せがあった。

 

  ひとしきり旅の話や水ようかん    野村蝶子

 

  堺重に入れて届けむ栗おこは     優江

 

私が嫁いで来た頃はお赤飯の注文を頂くと堺重に入れて届けてました。

堺重というのは堺名産の春慶塗の重箱で入れ子箱になってる。

中村軒の赤飯は糯米をキビ殻を炊きだした汁に浸けて作ります。昔からキビで

色付けした赤飯が最上と言われてます。

  

  老父母の静かな日々や寒の餅      中島勝彦

 

 この句も私の大好きな句です。御両親のお人柄も作者の御両親への愛情も

伝わってくる。

 

お正月のお餅が無くなる頃寒餅のご注文が来る。黒豆や桜エビ、青のり、黒砂糖、

粟などを搗き込んだお餅も人気で楽しみにして下さるお客様が多いのです。

以前は棒餅の注文も沢山あって棒餅を薄く切って干して家でおかきにしやはるのです。

それぞれの家の味付けがあって冬の楽しみの一つでした。寒餅で作ったおかきは

缶にいれて一年間のおやつにします。この頃は家でおかきを作る方も聞かへん。

我が家のおじいちゃんは饅頭作りは勿論やけどおかきを焼くベテランで皆が楽しみに

してました。

 

中村軒ではおじいちゃんのおかきを復元して「餅やのおかき」として販売して

人気商品となってます。「むかしおばあちゃんが火鉢で焼いてくれはった味や」

言うてくりゃはるのが何より嬉しい。

 

皆さんに喜んでもらえる仕事ができるのは中村軒で働いてる者の喜びです。

そして私は俳句を続けられるのも有難い。

 

この夏も美味しい水ようかん、かき氷、ひやし飴でほっとしておくれやす。

従業員一同お待ち申し上げております。

 

 

ほなこの月もめでたし めでたし。

編集子の勝手にコーヒーブレイク


8月号もミモザ句会報から、幹事の相良研二氏の筆による「座敷わらし・レポート」です。このコラムを愛読されておられる皆様には、すっかりお馴染みのおやじ殿と座敷わらし君の軽妙な会話で、楽しませてくれます。さて、今回はいかがになりますでしょうか。(信)

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座敷わらし・レポート

 

  うさぎ苔

       相良研二

 

おやじ殿がいそいそと家を出ていった。

もち、僕も同行。なんでも鎌倉のお寺にうさぎ苔を見に行くそうだ。

ん、うさぎ苔?、なんとも可愛らしい名前だけど、そりゃ何だ。きっかけはこうだ。

 「ねぇねぇ、これ見て。うさぎ苔。可愛いでしょう」

 「うん、可愛いね。君みたい」

ぷっ、君みたいは嘘。おやじ殿は口が曲がってもそんなことは云いません。

これは僕がちょっと台詞を吹かしたの。

 「この苔、どこのお寺で見たの」

 「さぁー、どこだったかしら」

 「だって、昨日行ったんだろー」

 「行ったけど、場所は分からない」

 「分からないってなんだよ」

 「だって、ついて行っただけだから」

 「ついて行ったって、場所はあの辺とか、お寺の名前は何とかかんとか、

その位は分かるだろ」

 「………」

じつは奥さん、昨日お茶のお稽古の仲間と鎌倉見物にいったのだ。

お仲間の一人に世界を股に添乗員をしているばりばりの積極おばさんがいて、

その人が鎌倉見物の企画を立て、半ば強引にお仲間を鎌倉に引っ立てた次第だ。

本音で言えば何事にもあまり興味のない奥さんは行きたくなかったのだけれど、

しぶしぶ今回の長谷寺拝観・うさぎ苔見物・和菓子作り体験ツァーに参加した。

現役添乗員だけに分刻みのきっちりしたスケジュールで、参加者はぽかーんとしていても

大丈夫だけど、奥さんは超方向音痴だからうまく場所を説明できない。

それにしても行ったお寺の名前も気に留めないとは、おやじ殿なみのアホだ。

 「で、長谷寺を出てからどっちへいったの」

 「えーと、たしか四つ角を左に曲がったけど」

 「ふーん、大仏のある方向だな」

 「あら、大仏なんてあるの?」

 「………、まあいいや、あとは調べるから」

おやじ殿が「鎌倉うさぎ苔」で検索すると光則寺がヒットした。

鎌倉までなら車で一時間足らず。光則寺は朝八時から開門していると書いてある。

コロナが五類に格下げになってから鎌倉は相当混んでいるらしい。

特に光則寺は、ちょー人気観光スポットの長谷寺のすぐ隣というから結構混んでいるかも…。

おやじ殿は朝飯も早々に出かけた。

途中のコンビニで買ったコーヒーを啜ながら江の島をあとに腰越漁港を抜け稲村ケ崎を海岸沿いに、

夏の海を見ながら気分はサザンな感じ♪

(じじいのど音痴のくせに何がサザンオールスターズだ、とは僕の独り言)

 さすがに朝九時前の鎌倉は空いている。

長谷寺前の駐車場はがらがら。作務衣を着た若い女の人が境内を掃いていた。

作務衣のじじいは普通で詰まらないけれど、作務衣の若いをんなは、句材としてはいいかも。

光則寺は長谷寺の参道をちょいと横にそれて、ほとんど徒歩五分の場所にあった。

静かな住宅街の奥に木々の緑も濃い山を背に赤い小さな山門が見える。

この光則寺は一二七四年創建の日蓮宗のお寺。

日蓮上人が執権北条時頼によって佐渡へ追放になった折、上人の高弟だった日朗は時頼の

重臣宿屋光則の屋敷の土牢に押込められたそうな。

    

しかし、その間の上人と日朗の交流に心打たれ、上人赦免後に光則が自分の屋敷を日朗に

寄進して出来たお寺だとか。

このお寺、鎌倉でも有数の花の寺として知られていて、市天然記念物の海棠や藤、紫陽花

など二百種類以上の植物で溢れている。

なのに隣の長谷寺があまりにも有名な為か、訪れる人も少ない地味なお寺。

山門には賽銭箱みたいな箱が置かれていて、百円入れれば誰でも自由に境内を散策して

草花を楽しむことが出来る。

茶花も多く、茶人など通の人には知られているみたいだけれど…。

うさぎ苔だって、とりたてて宣伝しているわけではないので、ほとんど知られていないらしい。

ちょうど今頃は草木の繁茂する時なので、境内は種々の植物で埋められている感じ、足元には

大小さまざまな鉢植えが置かれている。

この中からうさぎ苔を探し出すのは大変だなと思っていたら、庭を手入れしている市民ボランティア

みたいなおばさんがいたので、

「おはようございます。うさぎ苔を見にきたんですけど」と聞いてみると

「はい、はい」とすぐに庫裡の軒下まで案内してくれた。

軒下の石段に鉢植えが幾つも置かれていて、その一つにお目当てのうさぎ苔があった。

苔の花だけに小さいので腰を折らないとよく見えない。そばに虫眼鏡も用意されている。

確かに可愛らしい白い花が、うさぎのようにぴょんぴょん跳ねている。

              

いま、苔の花と言ったけれど、実はこのうさぎ苔は苔の仲間ではなく、藻の仲間で南アフリカ産の食虫植物。

だから季語にもなっていないし、うさぎ苔を詠んだ句もない。

ネット検索すると「虫眼鏡ウサギに似たる苔の花」なんて句が一つ見つかったけれど、

苔の仲間ではないので、これはちょと違う。

うさぎ苔そのものを詠み込んだ句は今のところ我が日本国には一句もないと確信したので、おやじ殿はさっそく

◎□×△§∑〇?□と駄句を捻りだし一番槍の功をものにした。

光則寺は本堂に上れるわけでもないので、植物に関心のある人でなければ来ないお寺だけど、小ぶりで質素な

本堂の前に今が盛りと半夏生の群棲もあり、季節の折々に来てみたいお寺ではある。

                           

おやじ殿が胸にうさぎ苔の駄句一つを抱えにやにや顔で山門へ向かうと、どこやらの中学生四人組が入って来た。

修学旅行生のようだ。

おやじ殿の頃は修学旅行というと、全員列になって軍隊のようにぞろぞろ巡ったけれど、

今はグループごとに分かれてノート片手に自主的に回っているらしい。

制服を着た女の子と男の子。

 「修学旅行?どこから来たの」

 「埼玉県の川越でーす」

「おじさんがいい物見せてあげるからおいで」

おやじ殿が声をかけると

 「えー、ほんとですかー」

と先頭の女の子が即答、四人とも素直におやじ殿の後をついて来る。

いいのかなー、知らないおじさんに声かけられてすぐついて行くなんて、ましてや、おやじ殿みたいに

見るからに怪しい爺さんについて行くなんて、まっ、いいか。

ここはお寺の中なんだし…。

 「ほら、これ。うさぎ苔っていうんだ。ここでしか見られないんだよー」

 「きゃー、可愛い」

女の子の一人がそう叫ぶと、さっそく中の一人の男子に写真を撮るよう指示した。

 「よっしゃー」

眼鏡をかけた男子中学生がばしゃばしゃ写真を撮り始めた。

まだこの年代だと女子の方が何ごとにつけ男子より上、それでこのグループもまるく治まっている様だ。

それにしてもこの子たち、じっくり自分の目で観察するよりも写真を撮ることで観察に代えているみたいだ。

 

まっ、大人だってスマホ片手にばえるだの何だのと大騒ぎしているのだから仕方ないか…。

そんな軽めのご時勢だ。

おやじ殿は胸に相変わらず駄句を抱え、今度は一抹の淋しさも感じながらとぼとぼと山門を後にした。 

                                           終

 

 

 

 

編集子の勝手にコーヒーブレイク ショートストーリー


 今月はミモザ句会報から、相良研二さんのショートストーリーを掲載させていただきます。一句から、瞬時にインスピレーションを得て、すらすらと小説を書かれます。7月号は、研二さんの「缶切りも遺品」の物語をお楽しみください。(信)

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  缶切りも遺品の一つ夏の雲

            相良研二

 「母さん、コッフェル知らない?」

 「洗って、しまっといたわよ。いつまでも放り出しておかないでよ、ほんとにもう親離れできないんだから、

  自分のことくらい自分でやったら」

 「ありがと、でも別に頼んでないし、母さんこそ子離れできないんじゃないの、フフフ」

 「あら、そんなことないわ、何時でも出ていっていいわよ」

 「嫌なこった、めし付きの家賃ただ、それに家政婦付きの好物件、そうやすやすとは出て行きませんよーだ、アハハ」

 「また、山登り?」

 「うん、土日に谷川岳に行ってくる」

 「お天気大丈夫なの、危ない所も歩くの?」

 「いや、亜希子と一緒だから、あいつ、連れていけってうるさいんだ。だからロープウェイで天神峠まで行って、

  そこから歩きだして肩の小屋に泊まって翌日オキの耳まで行って帰ってくるだけ。今回はほんの形だけのお気楽登山だよ」

 「あなた達、何時になったら結婚するの、山ばかり行ってて」

 「さーね、昔の母さん達と一緒だよ」

 

息子の健太郎が大学を卒業して中堅どころの商社に入ってもう五年になる。

学生時代にワンダーフォーゲル部に所属していた彼は休みの日を登山にあてることが多く、そんなノー天気な息子にも

恋人が出来たことを幸恵は喜んだ。

しかし、その恋人の亜紀子も健太郎に影響されたのかどうか、二人で山登りばかりしていて、なかなか結婚する気配が見えない、

それが幸恵にはちょっと気がかり。

 

健太郎が「明日は早出の残業だー」いっぱしの商社マンみたいにぶつぶつ言いながら二階に上がると、幸恵はまた夫、健吾の

遺品整理を始めた。先週の日曜日に三回忌も終り、それまでは夫の物を整理する気にもなれずにそのままにしていたけれど、

いつまでもそうもしてはいられない。三回忌を終えたら幸恵はまた仕事を始めることに決めていた。

それまで看護師をしていたので、前の勤め先の病院から是非戻ってきてくれと云われている。

 

押し入れの中の柳行李を開けるとオレンジ色のシュラフやアノラック、それに厚手の靴下が丁寧にしまってあった。

夫は割と几帳面なタイプで、山から帰るといつも自分で道具の後始末を楽しそうにしては、ご自慢の柳行李に仕舞い込む。

その点は同じ山好きの健太郎とは大違い。息子の方は山から戻っても放りっぱなしが多く、幸恵が毎回小言を云いながら

その後始末をしている。

今どき珍しい柳行李も何処で見つけて来たのか、道具類を仕舞っておくのにプラスチックの箱よりも通気性が全然良いと

力説していた。

もっとも、その道具もあらかたは健太郎がそのまま使っているので、遺品の山道具は少ししか残っていない。

 

その柳行李の中から赤いキャラバンシューズが出て来た。幸恵のものだ。

それは結婚したあとすぐに夫がプレゼントしてくれたものだけれど、実を言うと幸恵はその赤いキャラバンシューズを

二、三回履いただけだった。

息子は幸恵が夫といつも山に行っていたようなことを言っていたけれど、それは夫が息子に多少願望も込めて吹聴して

いただけのことで、幸恵は本当は、あまり山が好きではなかった。

それでも夫の無邪気な山好きは好ましく思っていて、ただそれに合わせただけのこと。

実際は丹沢や長野県内の山にちょっとついていっただけだった。

その分、夫は息子の健太郎を小学生のころから登山に連れまわして、彼を本物の山好きにしてしまった。

 

赤いキャラバンシューズは真新しい新品のようにきれいにしてあった。

きっと夫が幸恵と次にいく登山のために大事に仕舞っておいたのだろう。

幸恵はキャラバンシューズを手に最後に夫と行った入笠山のことを思い出した。

健太郎が生まれる前、新婚三年目のちょうど今頃の季節だった。

入笠山は長野県にある南アルプス前衛の山の一つで、標高は一九五五メートル。

山頂近くまで車道が通じ、ゴンドラでも行ける初心者向けの山。

登山に慣れない幸恵のために選んでくれた山だったのだろう。

沢入登山口の駐車場から入笠山湿原を通り山頂へ行く初心者コースなので、まだ若い幸恵の足取りも軽かった。

それに幸恵の分のザックも夫が持ってくれたので初夏の山の景色を存分に楽しむことが出来た。

ことに湿原の花々の美しさに圧倒されたことを今も鮮明に思い出す。

ちょうど盛りだったスズランの白い群生、燃えるように赤いレンゲツツジや薄紫色の可憐なフデリンドウ、

つつましやかに揺れるニリンソウなどなど、高山植物のお花畑に魅了された。

その時、「登山もわるくはないわね」なんて夫にも話したけれど、今から考えると、

それは夫の策略だったのかも…。

山頂からは八ヶ岳や甲斐駒ヶ岳、槍ヶ岳など穂高連峰の峰々、それに富士山までよく見えて、夫はそれらの山の名前を

一つ一つ教えてくれた。その横顔のまるで子どものような輝きを幸恵は愛おしく見つめていたことを今でも記憶している。

山頂から少し下った草原の中にシートを広げ、夫と食べたお握りやコッフェルで作ってくれた味噌汁の美味しかったこと、

食後のデザートに夫は好物の桃の缶詰を、大きな背中を丸めるようにしてコキコキと開けていた姿はちょっとユーモラスでもあった。

 

そんな登山の翌年に幸恵は健太郎を身ごもり、それを機に夫との登山からも遠ざかってしまった。

出産、育児、看護師として復職、幸恵が山に行くことはなくなった。それでも夫と息子との三人暮らしは忙しくも楽しい日々が続いた。

そして息子が社会人として歩み出した頃に、夫は突然に亡くなった。癌だった。

仕事が忙しく会社の健康診断で要検査の結果が出たのに放っておいたのがよくなかった。

看護師として幸恵も忙しい毎日だったにせよ、夫の健康にもっと注意していればと、悔やんでも悔やみきれず幸恵は自分を責め続けた。

それでも日がたつにつれ、いつまでもメソメソしていても始まらない、前を向かなければ、だんだんそう思うようにもなり、

そんな思いを息子の明るさが後押ししてくれた。

三回忌を終えたら夫の遺品を整理して仕事に戻ろう、ようやくそういう気持ちにまで回復した。

 

柳行李の隅に黄色い布袋があり、中からコールマンのカトラリーセットが出て来た。

ステンレスのつやつやしたスプーンやフォーク・箸は夫が大事に愛用していたもので、あらかた山道具を引き継いだはずの

健太郎もこのカトラリーセットは見過ごしたようだ。あるいは彼なりに使うのを遠慮したのかも…。

袋の中からもう一つ出て来た。それはちょっと錆びの浮いた赤い缶切りだった。今は缶詰もプルトップが主流だから、

もう缶切りなんてあまり見かけないけれど、幸恵の新婚時代にはまだ缶切りは台所の必需品だった。

あの時、二人でいった入笠山で夫が開けてくれた桃の缶詰も、きっとこの缶切りに違いない。

その時の缶を開けている夫の後姿がふっと浮かんできた。あんなに力んで開けていたから、きっとこの缶切り、少し働きが

悪いのかも…、それとも案外夫は不器用だったのかも、幸恵はくすりと笑った。

そう言えば、この前、偶然に見た俳句の雑誌に「鳥渡るコキコキコキと罐切れば」というのがあったのを思い出した。

幸恵は窓の外を見た。初夏の大空に、早くも入道雲が高く高く湧き出していた。

きっと、夫は今もあの雲の峰のどこかの頂きで、大好きな桃の缶詰をコキコキコキと不器用に開けているのかも知れない、

そんな姿が目に見えるようだ。

 

「あなた、私、もう大丈夫だから」、そうつぶやくと、幸恵はまた空を見上げた。

真っ白な大きな夏の雲が少し滲んだように浮かんでいた。            終             

 

 

※ある俳句大会に投句した拙句「缶切りも遺品の一つ冬の雷」の下五を変えて、「夏の雲」にしたらショートストリーが浮かびました。遺品と夏の雲の句では、「一瞬にしてみな遺品雲の峰」という櫂未知子の句が有名ですが、この句を自分は原爆を詠んだものと

ずっと思っていました。実は作者の亡き母上を詠んだものだと後から知りました。

 

 

 

別れの儀式


 

  今月は、今年の俳誌 嵯峨野・表紙絵の作者で湘南句会の幹事もされております益田富治氏から、素敵な写真と文と絵を

 お寄せいただきました。今も心は青春の真っ只中におられるように思います。氏は、今月神奈川での絵画展に多くの作品を

 出展されておられます。下欄の絵は、故郷の情景に夏の一句が添えられていますので、しばしご鑑賞ください。(信)

 

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                      写真は、読売新聞(熊本版)撮影

   別れの儀式                            

                                益田 富治 (2023年6月)

 

 この写真はまわりまわって届いた母校濟々黌(せいせいこう)高校の卒業式で生徒たちが校歌を斉唱する写真です。

「碧落仰げば偉なる哉」から始まる難解な校歌です。

胸をそらして歌う姿は都会の人たちから見ると今時の感がある風景だろうと思います。

彼らは卒業すると大半が東京、大阪、博多の大学に進み、就職し、その地で家庭を設け、一生を終えます。

熊本へ帰るのは例外です。つまり卒業式は高校との別れであるだけでなく、家族を含む古里との別れです。

勿論生徒の気持ちの中にはそんな感傷はありません。あるのは旅立ちの高揚感だと思います。

私の場合、関西で学び、就職し、転勤で東京。横浜が終の棲家となりました。

「有難う濟々黌、有難う熊本」という気持ちは今にならなければ判らないのかもしれません。

しかし頭では分からなくとも生徒たちの体が有難うと思っているように見えます。

「旅立ちに乾杯」そういわずにいられない一枚の写真です。

 

 

                  古里は夢の中なり夏燕         富治

万年筆


 今回もミモザ句会報から、松尾憲勝氏の寄稿を掲載させていただきます。松尾氏といえば、平成二十九年の俳誌嵯峨野の表紙絵を

 描かれた画伯でもあり、音楽の造詣も大変深く、湘南句会の代表をされています。深い味わいのある句を詠まれる同人です。(信)

 

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  万年筆

        松尾 憲勝 (2023年5月)

 

 句会でお世話になつているM氏から私の携帯に1枚の写真が送られて来た。

M氏の母校・熊本の名門校の卒業式の写真である。

詰襟の学生服姿で校歌を歌う凛々しい彼等にこころ打たれた。

 昔なら胸のポケットに万年筆を差して、これが誇らしく思われた。

商家の子息などは2本も3本も持っていたが、今は使われなくて残念である。

M氏の母校は旧藩校の流れをくむ伝統校だから、1人位は万年筆を差しているかとつぶさに見たが見当たらなかった。

かく言う私も文房具が好きで、たまにデパートの文房具売り場を見て歩くが、ここ数年は何も買っていない。

たまたま子供が進学するので、一緒に文房具売り場を覗いてみた。

シェーハー、パーカー、モンブラン、ウォーターマンなどの高級万年筆をあれこれと試し書きした結果、

店員さんの奨めもあって、1本のブルーの国産万年筆に決まった。

 「後日、お名前を入れてお送りしますので、見本帳でお好きな字体を選んで下さいね」

と店員さんはこまごまと、にこやかに応対してくれた。

この間、およそ30分以上、1本の万年筆の為に充分すぎる程の時間を割いてくれた。

この日は店員さんの助けもあって良いプレゼントが出来たと嬉しく思っている。

 かつて入学祝いの定番であった万年筆売り場も、今は新しい筆記用具に人気が移行しつつあると言う。

スーパーのカード決済に慣れた私には、このデパートの対面方式の販売は贅沢にさえ思えて来た。

 

万年筆を手にした彼が、M氏の母校の諸兄のように胸張って卒業する日を今から待ち望んでいる。

私も終戦直後にいただいたパーカー51を手にこの小文を締めくくりたい。

 

 

 

嵯峨野・表紙絵(京都 一力)の作者(益田富治同人)からのメールをご紹介します。


 

(前略)・・・・・あの際お話ししていた芸大のサイトに中島さん(※前同人会長)の俳句をもとに描いた絵と随想が載りました。できればご覧ください。このサイトには最初「肥後どこさ」が載り、学生に好評だったということから「京都一力」が載り、今回「運という不思議」が載りました。文の最後に中島さんの俳句が載り、合わせて描いた絵が載りました。この絵はハマ展に入選しました。嵯峨野への投稿として見てください。

 

芸大のサイトは storyproject2022.com です。 ← URL(青字のところ)をクリックして閲覧ください。(信)

 

ラーメン翔太と俳句のこと


今回も、東京ミモザ句会・令和5年3月句会報への寄稿文を掲載させていただきます。執筆者は柳 爽恵(さえ)さん、現在、若竹集同人としてご活躍中です。最近まで地元の人気ラーメン店を商われ、ご多忙だったときの奮闘記や俳句との出会いなど、大変興味深いお話が寄せられました。ご一読いただけましたら幸いです。(信)

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ラーメン翔太と俳句のこと

                                              栁 爽恵

 

 この度、研二さんから近況報告の依頼がございましたので、私ども夫婦が今年の一月三十一日に閉店した『らーめん翔太』の

「奮戦記」と、私の「俳句との出会い」を書かせていただきます。

  私たちは一九九八年五月三十日に川崎の新城という町の駅からほど近い住宅街に『らーめん翔太』をオープン致しました。

それまでの夫の仕事は建築関係でしたから、未経験の飲食業は親戚からは顰蹙を買うこととなりましたが、ラーメン店の経営は夫の長年の夢でした。夫の作る家庭サービスのラーメンはスープにこだわり、その独特の味が家族や友人に好評でした。

私はもともと和菓子屋の娘でしたので商売には抵抗がなく全面的に夫を応援致しました。

それまで主婦業だった私も店で働くことになり、また子ども達も手伝ってくれて家族で営むラーメン屋が誕生致しました。

 夫は毎朝五時に起床し店に行きました。開店時間に間に合うように、豚骨の血抜きをしたりその骨を砕いて大鍋に入れ時間を掛けて煮たり、その間にチャーシューや他の具材を用意したりと大忙しでした。当初は私が餃子作りを担当していましたが、どんぶり勘定の私がつくる餃子は毎日味が変わる日替わり餃子なってしまいました。

それで具はやはり夫が作ることになりましたが、夫の改良と工夫を重ねたギョーザは後々店の看板メニューの一つになりました。

家族でラーメン屋をやっていることが徐々に周囲の目にとまり、当時テレビに流れていたニュース番組のニュースステイションの取材を受けたこともございました。その時、司会者の久米宏さんが、「このお店のご主人はインスタントラーメンも食べます」と面白がって

紹介して下さったことを今も鮮明に覚えています。

親戚の顰蹙もありながらのスタートでしたが、子ども達の支えもあり、また客足の伸びない時には「ここのスープとチャーシューは美味しいから、いつか行列になるよ」と常連のお客様からも励まされました。

 お蔭様で開店して一年半後には田園都市線の梶が谷駅前に店を移転することが出来、駅前という立地もあり集客は新城の店の三倍に

なりました。その頃はバイトの人を三人雇って大忙しの毎日が続き、それからの十数年は『ラーメン翔太』の黄金時代と言えるかも知れません。

 

そんな中、二〇〇二年頃にお客さんで佐賀出身の小西さんという方が、梶が谷市民プラザで俳句を教えていらっしゃった同郷の友人橋本謙治さんを店に連れてこられました。そう、その方こそ、私に俳句を誘って下さった橋本爽見さんだったのです。

 それから月に一回、私の店で小西さんは佐賀県人会の小さな集まりを設けてくださり、爽見さんも頻繁にお見えになりました。

その頃の私は俳句なんていう高尚なものは、縁のないものと思っていましたから、爽見さんから何回か「俳句を共にやりましょう」と

お誘いを受けても、その都度やんわりとお断わりをしていました。それでも爽見さんの会話の中で俳句の楽しさをお聞きしているうちに、私にとって俳句はハードルが高いけれど、チャレンジしてみようかしら…という思いも生まれ始めていました。

 丁度、東日本大震災の起きた頃で日本中大きな心の打撃を受け、私もその痛手を自身どうにか癒したいと感じていたので、心に浮かんだことを句にしてみました。

 「東北の桜咲ひても春はまだ」と詠み、この句を爽見さんにお見せしたところ、桜と春が季重なりなっているけれど、これはこのままで良いと思うと評して戴きました。

 この頃から私の俳句に対する意識が高まったように思います。

 

そしてラーメン屋を営みながら、俳句を作る生活になっていきました。

 

しかしそんな折、まずまず順調だった『らーめん翔太』はコロナ禍の三年間で大きな打撃を受けてをり、税理士に相談したところ、

残念ながら店を閉めることが上策とのアドバイスを受けました。

四半世紀の長きに渡って頑張って来た店は先ごろ閉店致しましたが、振り返えれば万感の思いがございます。

 今、夫は息子の経営する会社の手伝いをしていますが、これまでは夫婦ともにゆっくり朝食も取れない生活でしたけれど、

この頃は二人そろって朝ドラを観ながらゆっくり朝食を楽しむ毎日になりました。

私は、これからの余生をどう生きるか、もう一度人生の桜を咲かせてみたいと考える今日この頃でございます。

編集子の勝手にコーヒーブレイク   瞽女(ごぜ)編


 東京ミモザ句会は、相良研二(さがらけんじ)さんが幹事をされております。毎月の句会報には、俳句の他に小説を掲載されたり、随筆を寄稿されたりと、言葉で話すように文章をすらすらと書くことが大変得意な方です。ほとんど、小説家です。ということで、嵯峨野ホームページの雑記つれづれには同句会報の中から、(ご本人の承諾を得て)ときどき楽しい文章などを拝借しております。今回のタイトルは「ごぜ」について、少し深堀りの歴史が、相良さんと「座敷わらし」くんが家族の会話形式で解り易く紹介されています。少し長文となりますが、お目通しいただけましたら幸いです。(信)

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座敷わらしレポート

                                                    相良 研二

 

瞽 女 編

 

 おやじ殿が真夜中の関越高速を走っている。奥さんの実家のあった新潟へ向かっているのだ。助手席では奥さんがスヤスヤ。

おやじ殿は前後をトラックに挟まれて目をかっと見開いている。

「あなた、お留守番よろしくお願いね」

 そう云われて、涙目でじっと奥さんの顔を見上げるおやじ殿。そのいじましいおやじ殿の姿に、ものの哀れを感じたのか、

 奥さんはおやじ殿を新潟へ伴うことにした。おやじ殿的にいうと新潟に連れて行って貰えることになった。

 

「わーい」

 

「まったく、一人で新幹線でさっと行ってさっと帰ってきたら、安く済んだのに、ぶつぶつ」

 

 これで上越市の高田に行くのは今年三回目、最初は二月にわざわざ雪見物に、二回目は俳句の先輩方のお供で、そして今回は

 奥さんの押しかけ運転手として。

 

奥さんはお寺さんと大事な話があるらしいけれど、ノー天気なおやじ殿の頭の中はすっかり観光気分。今度も高速の深夜割を

利用しての真夜中ドライブ。実は今回の高田行き、おやじ殿にはどうしても訪れてみたい場所が一つあった。それは市内にある

『瞽女ミュージアム高田』という施設。前回、前々回の旅行の時には開館日と合わなくて見ることが出来なかった。諦めて来年

の予定にしていたところ、奥さんの格別の御慈悲によってお供がかない、訪問出来ることになったのだ。

 おやじ殿はこれまで、瞽女はてっきり青森など東北地方のことだと思っていた。それが瞽女はその辺りにはいなくて、奥さんの

実家のあった高田が越後瞽女の一大拠点だったとは全然知らなかった。

 僕的には知らなかったままでも全然かまわないと思うけど、暇なおやじ殿は俄然興味を持ったらしい。

そこで高田へお供する前にわざわざ国会図書館まで行って、無学のくせにひと様の著作などをかいつまんで見て来たらしい。

 

 アホなおやじ殿がどこまで瞽女を理解できたのか、僕はおやじ殿をちょっと試してみた。

 

 「ねえねえ、そもそも瞽女ってなに?」

 

 「瞽女はね、ごぜと読んで御前(ごぜん)が変化したものと云われているんだ」

 

 「で、何者?」 

 

 「まっ、平たく云えば目の見えない女性達が生きて行くために、幼少のころから歌舞音曲の舞抜き、つまり三味線や端唄・長唄、

  義太夫などを覚えて地方地方を巡り報謝を受け、糊口をしのぐよすがとしたということだ」

 

 「目が見えないのに三味線を弾くなんて大変だね。それで…」

 

 「『瞽女 旅芸人の記録』五十嵐富夫著・桜楓社刊の受け売りだけど、瞽女の起源は平安時代の白拍子や歌比丘尼にその遠祖が

  あると云われていて、そもそもは嵯峨天皇の第四姫宮がその始祖とされている。

  室町時代には貴人の前で琵琶を弾き芸能を披露したそうだ。貴人の御前に侍るから、御前=ごぜん=ごぜとなったらしい。

  江戸時代になると琵琶から三味線にかわり大名家の奥向きの座興に招かれたり、地方地方を門付巡業するようになった」

 

 「へー、ごぜのごぜんぞ様って、天皇家の出なんだ」

 

 「座敷わらし君、つまらない駄洒落はよしなしゃれ。まっ、嵯峨天皇の姫宮というのは多分創作だろう。

  系譜の権威付けというのは誰もがやることだから…。女の子が幼少の頃に眼病などで弱視や失明になると、

  親が瞽女の親方のところに弟子として出す。

  高田の場合、親方は市中の町屋に居住していて、そこで十人前後の弟子と一緒に暮らしていた。」

 

 「障害者福祉なんてない時代だから、一種の職業訓練所兼グループホームみたいだね」

 

 「そう、とても合理的だね。だいたい六、七歳で弟子になった女の子は最初三年間の下積み奉公をして

  それから七年間、瞽女になる為の本格的な修行を積んで無事終了すると瞽女としての芸名を貰える。

  この時には他の親方衆も招いてお披露目の盛大なお祝いをするそうだ。

  そしてその後、一年間のお礼奉公をしてから晴れて一人前の瞽女として認められる。

  最短でも十一年間は修行が必要だった」

 

 「でも、なんかその修行って目が見えないから大変そうだね」

 

「そうなんだ、もちろん教本とか読めないから、口説(物語唄)や端唄、長唄、常磐津、清元、新内、義大夫など、

 全て親方の口伝口真似で覚えなければならない。レパートリーも多く膨大な量を毎日毎日繰り返し覚えるそうだ」

「記憶力の超悪いおやじ殿では到底無理だね」

 

 「特に三味線の稽古の時は、親方も盲目だから大変だったらしい。親方が弟子の背後に廻って棹を持つ弟子の左手の指に

  自分の指を添え糸の押さえ方を、右手の撥の手にも手を添えて教えたそうだ。

  まさに血のにじむような努力が必要だけれど、この芸を覚えなければ生きていけないのだから必死だったと思う」

 

 「ふーん、ところで最初、おやじ殿が瞽女を東北地方のものだと思い込んだのは何故」

 

 「うん、そのことだけど東北地方の北部にはイタコと云って、盲目の女性で口寄せを業としている人達がいたので、

  瞽女もたぶん東北のものだと思ったんだ。だけど瞽女はその地方には全然いなくて、巡業にも行っていない。

  棲み分けが出来ていたみたいだ」

 

 「一人前の瞽女の門付巡業ってどんなことをするの」

 

 「ざっと話すと、まず瞽女は巡業に出る時には必ず三人単位で行動するんだ。

  一番先頭の人は“手引き”と云われて弱視の人や普通に視力のある人が担当して、後の二人が前の人の背行李に手を触れながら

  歩いていく。そうして村々を回り家の門前で三味線を弾きながら新内や端唄などを披露する。

  そうすると家の人が報謝として丼か小椀に盛った米を瞽女の持つ袋に入れてあげる。

  時にはお金の時もあったそうだ。こうして日に多い時で百軒前後の家々を廻るそうだ。

  だいたいは地域の近郷近在を巡り歩くけれど、高田瞽女の場合、年に数回は三カ月位かけて信州方面まで行くそうだ」

 

 

 「目が見えないのにそんな遠くまで行くのは大変だね、治安だって悪いし女性ばかりだから、よくそんな真似があの時代に続いたね」

 

 「そう、自分もそのことがとても気になった。瞽女は江戸期から明治初期にかけて多く存在したんだけど、今でいう社会的弱者である 

  障害を持った女性の瞽女が自立出来た訳、このシステムが続いた訳をちょっと説明しよう」

 

 「受け売りのくせに偉そうに云うね」

 

 「まず一つはニーズの問題。昔は農村でも町なかでも、庶民の生活では娯楽的要素が極めて少なかったので、家々を門付けして

  音曲を提供する瞽女は安価で気軽な娯楽源として歓迎されたんだ。

  瞽女が宿泊する瞽女宿では夜になると村人が集まり、瞽女の語る義大夫のさわりや安寿と厨子王の物語に熱心に聴き入ったそうだ。 

  だから皆、瞽女の来訪を待ちわびたという。また瞽女は庄屋など村の実力者や武士階級の宴席などにも招かれたそうで、

  つまり瞽女は当時の社会の中にしっかりと定着していたということ」

 

 「ちょっと、ほかいびとに似ているね、地方を巡り歩き歌仙を巻く俳諧師にも少し似ているかな」

 

 「二点目として、信仰面でいうと、瞽女は徘徊遍歴を重ねるうちに霊力を宿したと信じられていたんだ。

  盲目にもかかわらず津々浦々を移動する能力が驚嘆されたのかも知れないね。

  瞽女の三味線を聴くとお蚕様の発育が良くなるとか、瞽女の三味線入れの紺絣袋の一部を使い子供の着物を作ると子供が無事息災に

  過ごせるとか、三味線の弦を細かく煎じて飲むと安産だとか、瞽女は民間信仰と強く結び付いていたんだ。

  だから村の有力者は歓んで瞽女の寝泊りする瞽女宿を提供したし、資料では瞽女宿へ村から資金援助もあったそうだ。

  瞽女は障害者であっても決して社会の底辺の存在ではなかった。村落共同体の中に確かな地位を築いていた。

  瞽女が治安の悪い当時、瞽女だけで旅が出来たことも理解できるね。」

 

 「なんか、今の時代でも見習う点がありそうだね。」

 

 「面白い話としては、瞽女諜者説なんていうのもあるんだ。

  松尾芭蕉も間者だなんて疑われたけれど、瞽女も各地を巡りその土地土地の消息には明るい。

  だから代官とか支配層に招かれたときには、いろいろ聞かれたろうことは想像に難くないね」

 

 「そうだね。宴席での三味線の合間に ーどうだ、百姓どもは年貢に不満を持っていないか、お上の噂話はないかー

  なんて聞かれたかもね」

 

 「でも、こうした瞽女も良い事ばかりではなく、瞽女式目という厳しい掟もあって、瞽女は男女のことを禁じられていた。

  一生結婚することは出来なかったんだ。この禁を破ると破門され、瞽女社会から追放される。

  仲間の助けがなければ盲目の瞽女が一人で生きて行くことは出来ない。

  何故、男女のことが固く戒められていたかというと、瞽女は三人一組で活動するから一人が色恋沙汰で抜けてしまうと、

  残された二人が身動きできなくなる、つまり組織が崩壊する懸念があったからだ。

  それともう一つ、目の見えないことに付け込んで瞽女を弄ぼうとする男も結構多かったらしい。

  器量のいい瞽女が身を誤った、結婚を餌に一時の慰みの果てに捨てられたなんて話もある。

  だからこの掟は厳しいようでも、自分達を守る掟でもあったんだ。やはり障害ゆえに苦しく悲しい側面も多かったと思う」

 

 「おやじ殿がこの前、瞽女の弾く音曲やがて虎落笛なんて句を作ったのはこのことかな、資料には瞽女の行き倒れや心中話も

  あったらしいから…、瞽女のこと、おやじ殿もアホなりにわかっているみたいだ」

 

  おやじ殿は雁木通りの一画にある瞽女ミュージアム高田に入って行った。ここに来るまでにおやじ殿は朝から奥さんが

 知り合いの処を訪ねる度に、お抱え運転手として家の前でじっと待っていた。お寺さんに行った時には、おやじ殿も取りあえず

 お墓の掃除などをしてから、ご住職のもとに伺候して神妙にご挨拶。ここのお坊さん、曹洞宗の禅僧だけどなかなかのやり手。

 檀家を本山や海外の研修に連れて行ったり、お寺の改築改修に手腕を発揮したり、脂の乗り切った働き盛り。

 おやじ殿は持参した俳句カレンダーを進呈したあとは、奥さんとご住職の難しい話をぼ~っと聞いているばかりで、さして

 関心はなさそうだ。

 

  瞽女ミュージアムは昭和初期の典型的な町屋造りで国の登録有形文化財の指定を受けている。入ってすぐの帳場の上は吹き抜け

 になっていて裏二階へ通じる渡り廊下が掛かっている。瞽女に関する書籍や資料、パネル展示があって、市民ボランティアの

 おばさんが熱心に説明してくれた。おやじ殿は、高田で生まれて高校まで過ごした奥さんに瞽女のことを知っていたか聞いたけれど

 全然知らなかったとか、おやじ殿と並んで瞽女の記録ビデオをぼ~と見ていたけれど、さして関心はなさそう。

  二階には瞽女を描いて有名な画家斎藤真一の絵画が沢山展示されていた。おやじ殿はこの絵が好きで絵葉書を数枚買ったけれど、

 瞽女の哀しみを秘めた表情がとてもいい。

 

 そう言えば、瞽女を詠んだ句としては白魚火の主宰だった西木一都の瞽女の宿雁木づたいの小暗がり子別れの瞽女唄なれば息白し

 が知られているけれど、やはりこれらの句にも物悲しい響きが流れている。

  瞽女ミュージアムを出たおやじ殿達は、帰りに奥さんが白馬村の観光ホテル一泊を奢ってくれることになり、「わーい」とばかりにおやじ殿は大喜び。犬だったらおやじ殿はたぶん尻尾をぶるんぶるん振っていたことだろう。

  翌朝のホテルの部屋からは白馬連峰のモルゲンロートが鮮やかに見えたけれど、前の晩に飲み過ぎたおやじ殿はとろーんとした目でちらっと見ただけで再び寝床の奥に引っ込んでしまった。

  この素晴らしい景で一句詠もうなんて気はさらさらなかったみたいで、相変わらず不出来なおやじ殿ではあった。

俳句


 嵯峨野俳句会には様々なご職業の方が俳句を楽しんでいらっしゃいます。

京都桂離宮の南側に明治16年創業の老舗和菓子店「中村軒」の中村優江(まさこ)さんが、毎月色々なテーマについて、

温かい京ことばで、ユーモラスに、普段の会話のようにお店からの情報を発信されています。

その第188回は、「俳句」をテーマにされておりますので、「雑記つれづれ」でもご紹介させていただきたいと思います。

抜粋しておりますので、ご了承ください。(信)

 

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188回 俳句  ~ 抜粋 ~            中村優江(まさこ)

 

「趣味は何ですか」ときかれると恥しいておもはゆいけど

「俳句の会に寄せてもろてます」と答えます。

 

子供の頃からしてた茶道、華道、書道、バレエ、みんな中途半端でやめてしもた。

俳句だけがエエお仲間に恵まれて続けられてます。

 

一番気に入ってることは名字でのうて名前で呼び合うことです。

 

名字は古代でゆうたら氏(うじ)で家名です。

名前は個人のもんや。

 

たとえば私を呼ばはる人は

・中村軒さん

・瑛ちゃんの嫁はん

・まんじゅう屋のおばちゃん

・亮太君のママ

 

ウチのダンナなんか「オイ!」しかゆうてくれへん。

私は「オイ」ゆう名前ちゃうで。

 

句会で披講のとき私の句を選んでくれはって、作者の名のりをあげるときは

「優江(まさこ)」と名のります。私を認めてもうたんやとうれしいもんです。

 

句座では社長はんでも先生でも、私みたいなオバハンでも、その一句だけが評価される。

これが俳句の醍醐味です。

 

話はかわりますけど、夏目漱石の『吾輩は猫である』の中で苦沙弥先生が嫁はんに

「世界で一番長い字を知ってるか」ときかはるところがあります。

 

「百人一首の中にでてくる法性寺入道前関白太政大臣

 (ほっしょうじのにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん)でしょう」

 

とにかく短歌は名のりが長い。

これは位(くらい)を知ってもらうという意味もあるのやろ。

俳句は位があらしまへんえ。

 

私は「嵯峨野」という俳句結社に入れてもろてます。

句会は土日が多いのでめったに出席せえへん。

新年句会は出ることにしてて、出席すると「ごはんの出るときだけ来るのんやなあ」

と笑われてますねん。

 

~ 中 略 ~

 

俳句ってむつかしいとか、才能が無いし無理やゆう人があるけどそんなもんやおへんえ。

わかりやすうて心わくわくする句もたんとある。

 

   みみずなく けらなく やなせたかし逝く

 

   蜜蜂といふ名の小さき光かな

 

   たんぽぽの咲いてもの干すだけの庭

 

   終戦日 暮れきってなほ地の熱し

 

嵯峨野主宰、洋先生の句やけど

どれも「ほんまや、そんな気持ちわかるわかる」と思う生活のひとコマです。

 

五代目主宰の昭風先生は次のように言うてはる。

 

「俳句は季節を詠む詩である。

 季節は時間。時間とは命である。

 俳句は即ち命を詠む詩であるといっていい。

 句帳を繙けばその当時の生活が蘇ってくる。

 俳句を続けるとはこの世に生きるということに他ならない」

 

ごもっともごもっとも。

俳誌嵯峨野はホームページもあります。ぜひご覧ください。

 

~ 後 略 ~

 

 

全文閲覧をご希望の場合は、こちらへ

思うこと


2022年5月

 

村田近子

 

 句会に出られなくなり5年近い歳月が過ぎた。

十年前に脊椎管狭窄症でまともに歩けなくなり、途中から頸骨の変形で首が曲がってしまった。

首にコルセットをはめ、私の生活は一変、奈落の底に落ちて行った。

外出も出来ず俳句も詠まず、悶々と日を過ごして来た。

 

 主人が今年のお正月に心不全で入院一ヵ月、コロナ禍で一度も見舞いも出来ず、退院後は家庭介護となり

四カ月過ぎて今も続けている。

医師を中心に看護師、リハビリ師、ヘルパー等見事な連携プレーのお陰で元気になったが、心臓が元凶なので

人並みの動きは止められている。

私には妹が二人いるが、二人とも歩けずホームの世話になっている。

残る兄弟三人の内、一人は千葉で現役なので介護は無理、一人は調布で心臓手術の後なので無理、長兄のみが

江戸川から通いあれこれ動いてくれている。

私は女性一人なので主人の介護に当たるのは大変である。

 

 句友の仙命さんと研二さんが投句だけでもと誘ってくれたので、応じることにした。

もっと早く応じていればよかったのにと残念に思う。

昨年八月の目黒句会をはじめにミモザ句会と続けている。

好きなものは続けてゆけることを信じて皆勤している。

体型がすっかり変わってしまい句会へ出席は出来ないが、幹事さんが詳細を送ってくださるので、以前のように

楽しく続けている。

これからは俳句の空白をつくることなく、学んでゆきたい。

 

爽見さんではないが、俳句は私の心の糧である。

ミモザに入会以来、爽見さんとは共に俳句を学び私にとっては大事な友人である。

爽見さんはいろいろな不幸に見舞われているが、俳句は人生の糧であると病を抱えながらも、今も尚俳句一筋に

歩んでいる見事さには脱帽。

守護神として亡くなられた奥様が後ろ十センチで必ず守っていてくれるので大丈夫。

指示もだしてくれていると聞いている。

ミモザ句会は益々繁栄してゆくと信じている。

仲間の一人になれて私も嬉しい。

 

ミモザ句会のみなさんありがとうございます。

これからもよろしくご指導くださいませ。

 

 

村田近子様は齢九十を過ぎておりますが、現在、ミモザ句会(相良研二幹事)と目黒句会(中山仙命幹事)に投句を続けておられ、俳句を心の糧として、俳句を愛し、楽しんでいらっしゃいます。掲載文は、ミモザ句会報へ寄稿されたものですが、若輩の私たちに勇気をいただけるのではと、ご本人の諒解をいただき掲載させていただきました。(信)

編集子の勝手にコーヒーブレイク 其の弐


                                                        相良研二

 

 全日本貧乏人協議会筆頭理事みたいなおやじ殿がよく行くお店はブックオフ。本は大抵ここで買う。

だから流行りの新刊を書店で買うことは稀。

しげしげと近くのブックオフを何軒か廻っては、ろくすっぽ分かりもしない俳句本を買ってきては悦に入っている。

ちなみに今月買って来た本は「名句鑑賞辞典」(二千六百円→五百円)、「日高まりも句集・花の庭」(二千八百円→一四四六円)「大輪靖宏句集・月の道」(二千八百円→一四四六円)、「地名・俳枕必携」(千八百→五百円)「岩波新書・俳句という遊び」(六三一円→百十円)。

おやじ殿は自分が句を作るよりも他人の句集を読むのが好き。

まっ、自分の句が出来ないので、出来た人の句を憧れの気持ちで見ているのかも。

それにしても句集はもともとの発行部数が少ないので、値段はさして落ちない。

だけど前の持ち主が作品に印をつけていたり、鑑賞を走書きしていたりすると、「ご同役はこの句がお好きか、ふむふむ」などと楽しくなる。反対に真っ新な句集の扉に謹呈などの差し紙もそのままに店頭に並んでいると、その句集はちょっと可哀そう。

「名句鑑賞辞典」角川書店、飯田龍太・稲畑汀子・森澄雄監修には、正岡子規以降の近現代俳人八七一名の代表句一三八六句の解説・鑑賞が載っていて、これで五百円はかなりお得、ぼちぼち読み進めているようだ。

本は新刊でも古本でも、いいな!欲しいな!と思った時に買わないと、二度と巡り合えない事が多い。

丁度、街で見かけた素敵な女性に「お茶でも飲みましぇんか」との声を掛けそびれ、二度と巡り合わないのと同じ。

もちろん、これは昔から品行方正なおやじ度の勝手な妄想的例えで、おやじ殿にはそんな経験はありません(後日、おやじ殿に確かめたところ、大学生の時に地元のパチンコ屋で一回だけ声を掛けたことがあるそうな。相手は地元で知られた牧師さんの娘さんとのことで、息抜きにきたとか。真面目なお話をして、それっきりです)

 

話が横道にそれました。今回入手した「俳句という遊び」副題に句会の空間とある新書、これはかなり面白い。

一九九一年の発行で、既にご存知の方もいるかも知れないけれど、内容は安井浩司、坪内稔典、田中裕明、三橋敏雄、高橋睦郎、岸元尚毅、小沢實、飯田龍太という俳壇の殿上人達が山梨県境村の山蘆に集合して、それぞれが出した席題に、各人がプラス・マイナスの正選・逆選を行い、その鑑賞や非難の応酬を二日間に渡って繰り広げるというもの。

それをまた行司役の俳人で作家の小林恭二がユーモアたっぷりにレポート・解説をする。

当代きっての大御所達の俳句にたいする向き合い方や句考の中身が窺い知れて、特に取合せの妙についてはかなり参考になる読物になっている。

この本は定価六三一円がブックオフで五一九円、更に値下げして百十円にまでなっていた。

俳人もどきのおやじ殿では、内容が十分に解るかどうかは知らないけれど、今、二回目を読んでいる。

これで百十円は本当にお得、ブックオフさん、どうもありがとう。

一句鑑賞 ショートストーリー


                                                        相良研二

 柿たわわ無頼の男顔を出す     爽 見              

 

 ガラッと格子戸を乱暴に開けて入ってきた男。

「よっ、新坊、大きくなったな。じいちゃん入るかい」

 新太郎は突然入ってきた男にびっくりして家に駆けこんだ。

「母ちゃん、おっかなそうなおじさんが家に入ってきた」

 台所で米を研いでいた芳江は、また押し売りでも来たのかと、エプロンで手を拭きながら玄関に向かった。

「新ちゃん、おじいちゃんのところに行っておいで。出て来るんじゃないよ」

 戦後の混乱もようやく終わったとはいえ、まだまだ落ち着かない世間では、ゴム紐などを強引に売りつける押し売りが横行していた。

 一昨日も芳江はそんな手合いを一人撃退したばかりだ。

 年老いた両親と一人っ子で七歳になる新太郎を守っていかなければならないという思いが芳江を気丈にした。

 「あら、辰之助」

 芳江は絶句して立ちすくんだ。

 五年前に親に勘当され、捨て台詞をはいて飛び出していった弟の辰之助がニヤニヤした顔で玄関につっ立っている。

 手には菓子折りを持っている。

 「姉ちゃん、久しぶりだな。元気かい」

 「まぁ、どうしたの。今までどこにいたの」

 芳江は早くも涙ぐんでいる。

 「済まねえ、あん時は俺も短気だった。今はちゃんとやっているよ。それで、おやじに詫びの一つも入れようと思ってきたんだ」

 芳江はエプロンを顔に押し当てたまま、奥の隠居部屋に駆け込んだ。

 「お父さん、辰ちゃんが帰って来ました」

 さっきから庭のたわわに実った柿の木を見ながら、明日の句会に出す句をひねっていた文藏は、驚いたように顔を上げると、

 一瞬間があってから、遠くを見るように視線を泳がした。

 「そんな奴は知らねえ、とっと追い返しちまいな」

 「でも、お父さん…」

 「いいんだ、いいんだ、さっさとしねえか」

 父の頑固一徹な気性を知っている芳江はしぶしぶ玄関にもどって

 「辰ちゃん、ごめんね。父さん会わないって」

 「そうかい、おやじも相変わらずだな」

 辰之助はちょっと苦笑いをすると、菓子折りを上がり框に置きながら

 「姉ちゃん、また来ら」

 そう言い残して足早に出ていった。

 「父さん、辰ちゃん、おとなしく出て行きました。なんか身なりもさっぱりしていて、あの時とは別人みたい」

 「まっ、親に会いに来よっていう了見だ。親の顔を見られないようなことはもうしていないんだろう。もう少しだ。

  もう少し辛抱すればきっと正真正銘の真人間に戻る。それまでは会わねえ」

 「もう少しの辛抱だ」

 自分に言い聞かせるようにもう一度つぶやくと、文藏は倅の持ってきた菓子折りを開けた。

 「けっ、あいつ俺の好物を覚えていやがる」

 思わず文藏の顔がほころんだ。それは文藏が銀座に行くたびに買ってきていた空也の最中だった。

 「ばあさん、ばあさん。お茶だ、お茶。それに新太郎も呼んで来い。あいつも甘いものは好物だ。みんなで頂こうじゃないか」

 文藏は茶を啜りながら、晴れやかな顔をしてまた柿の木を見つめた。そしてややあって、

 「句が出来たぞ。柿たわわ無頼の男顔を出す 

 どうだ、ばあさん、こいつを明日の句会に出そう」

 文藏は二つ目の最中に手を伸ばした。

 

 ※爽見顧問の作品を、自分なりの鑑賞のもとに創作してみました。

短編小説 プロペラの碑


                                                                相良研二

 

俊平には通るたびに気にかかる場所があった。

それはよく路傍の片隅に見かけるような、なんの変哲もない石碑なのだけれども、供えられている花がいつもまめに替えられていて、

辺りがきれいに掃除されていることが妙に気にかかっていた。それに変哲もないというと、それも少し違うかも知れない。

石碑の一つが飛行機のプロペラの形をしているのも不思議だった。

 足柄平野から渋沢丘陵へ抜けるつづら折りの山道からは箱根外輪山の山並みや相模湾も望め、その山道をミカン畑や雑木林に囲まれた

 集落へ向かう途中の静かな一画にその石碑はあった。近くの人家からも少し離れていて、普段通る人は少なかった。

 そこを通るたびに停まって確かめようとは思うのだが、子供を載せての送迎の途中だし、その石碑はちょうど見通しのきかないカーブ脇

 の広場に建っていたので、すぐ近くに車を停めるのはちょっと危険ではばかられた。

 俊平は小田原市内の障害児のデイサービスで働いている。

 働いているといっても、もうとっくに現役をしりぞいて、勤務は週に二日か多くて三日程度だが、障害児のお世話はサラリーマン時代から

 の希望だった。だからこの仕事はとても気に入っている。

 送り迎えする子の家と施設とをつなぐこの山道を週に一度は往復している。

  最初見たときは、合戦で倒れた武将の記念碑か何かと思っていた。

  この辺りは小田原の北条氏を攻めるために武田信玄や上杉謙信、そして豊臣秀吉と 多くの外敵の来襲があった合戦の地でもあり、

  そのため往時を偲ぶ首塚や胴塚なども所々に散在する。

  それにしては、石碑がプロペラの形というのはやはり変だった。

  竹林の葉擦れがさやさやと気持ちのいい梅雨晴れのある日、とうとうその謎を確認するチャンスがやってきた。

  いつものように子供を迎えに行く途中、携帯電話が鳴りドタキャンを伝えて来たのだ。突然、目先の用がなくなり、しかも子供も乗って

  いないので、少し離れたところに車停めて石碑を確認に行く時間は十分にあった。

  木漏れ日が薄緑色に染まるような山道を五分ほど辿ると、例の石碑が見えて来た。そばで爺さんがひとり掃除をしていた。

  多分、供花を替えに来たのかも知れない。

  「おはようございます。ちょっとこの碑のことでお聞きしてもいいですか」 俊平は用心深く丁寧に頭を下げた。

  少し気難しそうな爺さんだ。土地の古老という感じもする。手に替えたばかりの萎れた紫陽花を持っている。

  替わりに碑には鮮やかな桔梗が花立に添えられていた。

  爺さんはのっそりと顔を上げると、少し訝しそうな表情をして顎をしゃくった。

  俊平はそのしゃくった顎の先に眼をやった。そこにアルミ板を真鍮の枠で囲った立派な案内板が立っていた。

  石碑から少し離れた木陰にあったので今まで気が付かなかった。

  近づいてみると案内版の「陸軍中佐上原重雄戦死の地碑」大きく横書きにされた字が目に飛びこんで来た。

 

 その説明文にはー『昭和二十年二月十七日、相模湾沖に侵攻した航空母艦から発進したグラマン戦闘機延600機が初めて関東地区を襲った、  

 それは硫黄島上陸作戦を目前にした本土目標に対する集団攻撃であったこと。

 空襲を終え帰還の途中にあった敵の大編隊に対して単機捨て身で突入した日本軍機が衆寡敵せず集中砲火を浴びて、この小田原上空で炎に

 包まれ墜落したこと。

 その搭乗員は首都防衛飛行第22戦隊上原重雄中佐(鹿児島県出身、享年28歳)で、バレンバン航空隊を拠点としてニューギニア戦線で活躍し

 B17爆撃機の撃墜など、数々の偉勲を立てて歴戦の勇士と言われた人だったこと。

 当時は第22戦隊隊長として愛甲郡愛川町中津の基地に赴任してをり、部下の隊員を掩体壕に待機させながら、自らは義憤の思いが抑えがたく

 単機にて発進攻撃をしたこと」―などが丁寧に記されていた。

  俊平は何かの本で、太平洋戦争末期に洋上の航空母艦から発進したアメリカ軍艦載機は、富士山を目印に北上して駿河湾上空で右旋回し湘南

  ・京浜地区上空を通過し東京に侵攻したと書いてあったことを思い出した。

  いわば小田原の空の上は敵機の通り道にあたっていた。

  爺さんが近づいて来た。訝しそうな表情はもう消えている。皺だらけの浅黒い顔の中で人のよさそうな眼が笑っている。

 「上原さんの碑に何か関心があんのかい」

 「いや、初めてなんで、何の碑かなと思って見に来ました。

  歴史好きなもので、でもまさか太平洋戦争の戦死者の慰霊碑とはびっくりしました。ここも戦場だったんですね」

 「俺はその頃はまだ幼児だったからよく知らんが、その時のことは父親が覚えておって、敵の編隊を相模湾まで追いかけていった戦闘機が

 ここまで戻ってきたときに、東京攻撃から戻ってきた第2波の敵編隊と遭遇して、撃ち合いの後、敵の集中砲火を浴びて墜落したそうだ。

 その時、村の者みな総出で空を見上げておった。おやじの話では、炎に包まれた天蓋から操縦士が身を乗り出して基地の方や皇居に手を

 振ってから、そのままこの村の山に激突した様子がよく見えたそうだ。村の者はみんな涙を流し、手を合わせて拝んだと言っておった」。

  「それからですか、こうしていつも花を供えてきれいに掃除しているのは」

  「そうじゃ、その時以来、村の者は上原さんをこの地区の戦死者として遺影を村の寺に祀り、ずっと地区の者が交代でお護りしているん

   だよ。あのプロペラの碑は上原さんの搭乗していた戦闘機疾風(はやて)のプロペラの形をしておる」

  俊平は爺さんの話を聞いて軽い驚きを覚えた。

  戦闘のあった昭和二十年から75年以上も経った今でも、何か特別な記念日でもない普通の暮らし中で、村人が毎日供花を欠かさずに大事に

  護っていることに感動すら感じた。そのような事が75年間も欠かさずに続くのだろうか。

 毎年8月15日の終戦記念日が近づくと、テレビも新聞もこぞって戦争の惨禍を番組で取り上げ記事に書き、いわゆる識者やコメンテーター

 などがしたり顔で憂いてみせ、その日が過ぎるとコロッと忘れてしまうような薄っぺらな今の社会、安全保障に関する法案が審議される

 たびに国会前で太鼓を打ち鳴らしながら反対を叫び、法案が可決された途端にお祭り騒ぎのような反対運動があっという間に雲散霧消して

 しまう、うわっ面だけの人間が目立つ今の日本にあって、当時の記憶を代々にわたって黙々と日常の中で伝えていくような実直な行為が

 続いていることに、俊平は心を動かされた。

 土地の人が親しみを込めて呼ぶ上原さんの碑は、決して英雄をたたえるための碑ではない。

 国を守るために壮絶な死を遂げなければならなかった若者への深い悲しみと戦争のむごさを後世に語り継ぐための碑であり、村の人々は

 今も愚直なほどの誠意で死者へ花を供え続けている。俊平は信じられる本物の祈りがここに在ったことに興奮を感じた。

 まだまだ日本人は捨てたもんじゃない。

 そんな弾むような気持ちを抱きながら、俊平は爺さんにお礼を言って車に戻っていった。                了   

追悼小説 ある俳人の訃


                                                                相良研二

 

何げなく、いつものようにパソコンを開いた。勤務明けの土曜日の遅い朝、コーヒーを啜りながらメールをチェックする。

大抵はつまらない広告の類で、交友関係の極めて少ない恭介にとって、あまり意味のあることではないのだけれど、時折は所属して

いる俳句の会からの連絡もあるので、半ば習慣にもなっている。

目に飛び込んできたのは句会の大先輩の訃報だった。

誤嚥性肺炎で急逝したとの文字が白い画面に細々とし明朝体で刻字してある。

所属する結社の同人会長からの知らせだ。このところ高齢会員の訃報があいついでいる。

定年後、世間からは老人とみなされる年代から俳句を始める人が多い中で、これは仕方のないことでもあるのだけれど、やはり身近に

接した人が逝ってしまうことは淋しい。

立石さんはとても熱心な俳人だった。八十をとうに過ぎた年齢にもかかわらず結社の幾つもの月例句会に毎回欠かさず参加している。

句歴の十年にも満たない、この世界ではまだまだ駆け出しの、自らを俳人などと名乗ることも面映ゆく感じる恭介にとって、立石さん

のその姿は驚異とも思え、また少し訝しくも感じていた。

ほとんど毎週のごとく行われる俳句の会にそんなにたくさんの俳句を作って出すことが出来るものだろうか。

いつも句会で一緒になるたびに軽い疑念を抱いていたのは、恭介の偽らざる思いだった。

 

立石さんと句会を共にするようになってから数年は経つが、その間にも立石さんはめっきりと老いを加速させていった。

回覧清記はいつも立石さんのところで停滞した。書くのが遅い恭介にとってそれは救いでもあったけれど・・・。

句会がはねると最寄りの駅までの道を、杖をつきながらいつも皆に遅れがちについてきた。

そんな時、何かと立石さんに気を使っていた同人会長の姿も目に残っている。

五十年来の付き合いと聞いたことがあるけれど、そこは恭介にはうかがい知れないことでもあった。

句会での立石さんの句はその多くが自宅近くの多摩川を詠んだ句で、おそらくはつれづれの散歩の途中に詠んだ句のようだった。

脚力の弱った立石さんは遠出が出来ない。

若い時はいざ知らず、今はもう思いのままに吟行に行くこともなく、毎日の見飽きた散歩コースの日々の景色の移ろいを句に詠む

ほかはなかったのかも知れない。

その句は恭介にとってマンネリの様にも思えた。

以前読んだことのある藤田湘子の「俳句作法入門」に俳句メガネという一文があった。

―俳句を作ろうというおもいが萌した刹那から、対象を探る眼も、それを十七音の枠に収めるべく省略する方法も、季語の選定や

配合も、ことばの選び方やその並べ方も、すべてが俳句的に俳句的にと傾いて云々―という内容だった。

立石さんの句もいつも見る景が変わらないので、そうならざるを得ないのだろうかと恭介は思った。

こうして立石さんの訃報に接してみて、立石さんにとって俳句とはいったい何であったのだろうかと、恭介は改めてその意味を少し

考えてみた。

それは老後の暇つぶし?、生きるよすが?飽くなき創作意欲?そのどれもが当たっているようでもあり、また違っているようにも

感じられた。

立石さんは句会で自分の句に点が少しでも入ると子供のように喜んだ。

軽口を云って皆を笑わせた。

そんな立石さんの姿を思い起こす時、その姿の向こうに俳句と向き合う立石さんの、また別の姿がおぼろげながら浮かんでくる。

つまりそれはこういうことかも知れない。

素直に喜び素直に口惜しがる、そこにあるのは無心の心だ。

俳句をやる人の大方は、自分の句に点が入ればほくそ笑み、無点にでもなれば舌打ちをする、それもすべて気取られないように

心の内で。

立石さんにはそれがない。若い時にはあったのかも知れないけれど、今はない。

今は無心に句を作っている。

それが恭介からマンネリの句と見られても、無心の句づくりには何の意味もない。

そう感じた時、恭介は立石さんの句を本当の意味で鑑賞する力が自分には欠けていたのだと気がついた。

句を作ることを楽しみ、句を作るために生きている事を楽しむ、それが亡くなるまでの立石さんの本当の姿だったのかも知れない。

しかし、その立石さんの俳句人生もあっけなく終わってしまった。

聞けば立石さんは結社の新人賞や結社賞をはじめその他の受賞歴も数々あり、また角川の歳時記に例句が載るほどの実力者だった。

恭介の及ばないはるか高みで句に遊ぶ人だった。

その立石さんは恭介に、人はなぜ俳句をつくるのかという命題を残して去っていった。

その答えを見つけるには、立石さんの残した今は遺作となってしまった句の一つ一つに当たっていくしかない、

恭介は今、そう思っている。         

 

大石懋役員の訃に接し、創作致しました。 

     ご冥福をお祈りいたします。    編集子

或る編集子の勝手にコーヒーブレイク


相良万吉

                                                      相良研二

 

 おやじ殿がまた出かけた。なんでも武蔵野の神代植物園に行って当季植物詠をものにするとか、けっこう息巻いている。

 バカだなー、報われない努力というものが多々あるということが、世の常なのに…、才なき者は所詮才なき者という理(ことわり)が

 未だに理解出来ないようだ。

 まっ、それはそれとしておやじ殿のいない間に書斎をちょっと覗いてみた。

 この書斎もこの家を建てた当初は、おやじ殿の細君が粗茶をたしなんでおり、ちっちゃな家のくせに生意気に、一応炉がきってあり

 雪見障子に坪庭を配したようだけど、築四十年、いまだ炉開きとか初釜とかのお招きに預かったことはない。

 自在鉤を掛ける天井の蛭釘からはときおり洗濯物がぶらさがっているし、床の間にはおやじ殿の書架がでんと居座っている。

 ろくに字も読めないくせに、仰々しく俳句関係の本がこれ見よがしに並んでいる。

 その棚の片隅に埃をかぶっている文庫本に目がとまった。

 文庫本の小口の塵をフッと払って手にとると、「俳人風狂伝」石川桂郎著とある。石川桂郎と言えば確か

 「うらがえる亀思ふべし鳴けるなり」「雛の夜の風呂あふるるをあふれしむ」などの句で知られる床屋のおじちゃんだ。

 目次を開くと、俳句関係の風狂変人の名前が並んでいる。

 種田山頭火や尾崎放哉など、その方面では大御所として知られている名前や西東三鬼や松根東洋城などと並んで、相良万吉という

 名前があった。

 相良だってー、おやじ殿と一緒じゃーん。

 まっ、相良なんて苗字、関東方面じゃ少ないけど、九州じゃ掃いて捨てるほど多いからなんてことはないけど、俳句で相良なんて、

 なんか悪い予感。ちょっと読んでみる。

 何でも相良万吉は明治三十三年大分県に生まれ(ほら、やっぱり九州だ)。

 小倉中学から一高中退、各地を流浪しなが左翼運動に没頭とか。

 当時のインテリによくあるパターンだ。さぞ、親御さんが泣いたことだろう。

 社会主義文学の翻訳や岩波書店の臨時雇いなどで糊口をしのぎ、その後応召し戦地へ、病を得て帰還、これもインテリ兵隊に

 よくあるパターンだ。

 帰還後は生活に窮し炭焼きからペンキ屋へ、そして怪我をして働けず乞食になったとか。

 お定まりの転落コースまっしぐらという感じだ。

 逃げられたかみさんとの間にもうけた二人の男児を抱え横浜や銀座の路頭でとうとう物乞いを始めた。

 彼の坐る横には『道行く人の御慈悲に生きて父子三人。

 父わたくしは昔南太洋戦の生き残り。戦地からの病気に売りつくし喰ひつくして無一物。

 妻は逃げ出す。男の子ふたりは未だ小さく、やむなく子を連れ子を背負ひペンキ職となって労働と育児と炊事。そして流浪。

 或る年或る日暮しの足砕けてつひに路傍の人間屑。おゆるし下さい。伏して一片の餌を乞はんのみ。

 『一老兵』と書かれた貼り紙がしてあり、その紙片の端にその時々の句を添えたそうだ。

 

 薫風に生きよと賜ふ言葉かな       子らも仰げ慈悲の都の空の虹

 良夜哉土管を宿の丸き視野     秋灯下机代りの函二つ

 散る柳乞食の函に頂かん      クリスマス乞食も小さき樅買はん

 跪く大地の冷えも十二月         施すも施さるるも花吹雪

 吉田橋霞に伏して子に詫びん     片足は青きを踏まず松葉杖

 

 そのうちに数寄屋橋名物の俳句乞食として注目されマスコミにも取り上げられるようになったとか。

 やがて徐々に健康を損ない子供二人は元のかみさんに返し、自分は自殺を試み二度目の自殺で昭和三十五年にこの世を去った。

 大寒の陽の美しき畳哉 の辞世句がノートに記されていた。

 この相良万吉の句や生き方を、俳人の安住敦は「その少しばかり得意とする俳句をおのが売り物にして巷に立ち、物見高い都人の

 関心を期待し、あはよくは、物好きなジャーナリズムをでも念ってゐるのではあるまいか」と痛烈に批判している。

 おやじ殿の文庫本にもこの箇所にマーカーで線が引かれているので、多分同じ思いを持ったのだろう。

 まっ、座敷わらしの僕は俳句のことはよくわからないけど、自己憐憫に満ちた安直な境涯俳句は万吉さんには悪いけど、たとえ句

 として上手でも感動を誘うものではないし、返って見苦しい感じもする。

 この文庫本が本棚の片隅で埃を被っていた意味もここに在るのではないか、とおやじ殿の胸中を推察してみたけど、多分それは

 ないか、たんに不精して掃除をサボっただけだろう。