体験入会者作品 評         才野 洋 選


令和6年5月号

  山の湯の宿下駄軽し日脚伸ぶ           永井  透  
   「軽し」は必ずしもグラムで計ることの出来る重量のことではなく、作者の心のことであろう。春が近づいているという期待感が心を軽くさせているのだ。  
  初あかりドライブインの人だかり         中谷 たか  
   次の句と合わせて読むと、初日の出を見にお子さんとドライブに行ったときのものと想像できる。他にも初日の出を見ようとする人達が多かったのであろう。  
  鐘の音に思ひ巡るや去年今年           上松 順子  
   除夜の鐘の本質が詠まれている。前の句とも合わせて、一年を静かに振り返り、新しい年への期待を胸に抱く作者の姿が見えてくる。  
  あけらぽん積雪の無き出羽の寒          森谷留美子  
   「あけらぽん」は「あらまあ」といった意味。地球温暖化の影響で雪国の山形でさえ雪が降らないことに驚いている作者。  
  目の奥のぬくもり消えぬ初日かな         高畑 由紀  
   「ぬくもり」は温度のことではなく、初日の出を見た感動のことであろう。その感動を忘れないようにしようという作者の意志が感じられる。    
   同人・会員皆さんのご協力もあって、充実した体験入会のコーナーを構成できています。俳句というのは本来座の文芸であり、多くの人が集まって批評し合うことがその本質にあります。俳誌というのはその延長線上にあるものです。しかし自分の作品を他の人に読んでもらうのは、実は勇気の要ることです。最近はテレビで俳句の番組が流行っているのに、結社に入って俳句をする人がそれほど増えていないのは、「自分の作ったものを他の人に見られるのが恥ずかしい」ということがあるからかも知れません。「体験入会」という制度が、そのような心の敷居を少しでも低くすることが出来るのであれば、これほど嬉しいことはありません。(洋)  
       
       
       

令和6年4月号

  みづうみの細波白し山眠る            永井  透  
   「細波白し」に冬らしい寒さが感じられる。季語を「山眠る」としたことも適切で、近景の湖と遠景の山とで大きな景色の写生句が仕上がった。  
  冬すみれ色とりどりの散歩道           中谷 たか  
   「色とりどりの」は「冬すみれ」のことでもあり、また「散歩道」のことでもあるのだろう。色の豊かな散歩道を歩いている作者の軽快な気持ちが感じられる。  
  紅葉に心洗はる高野道              上松 順子  
   「高野道」という固有名詞が効いている。「心洗はる」は紅葉の美しさに対してだけでなく、霊場に続く道であるという意識からの気持ちでもあるだろう。  
  焦げちよんちよん鋏み鯛焼渡しくれ        森谷留美子  
   「ちよんちよん」という擬態語がなんとも楽しい。鯛焼き屋の些細な心配りではあるが、そういう心配りをしてくれること自体が嬉しいものだ。  
   嵯峨野俳句会では俳句は旧仮名で書くことになっています。旧仮名を使うことの利点の一つとして「旧仮名を読む力が付く」ということがあります。言うまでもなく第二次世界大戦以前の日本語は旧仮名で書かれてあります。旧仮名を読む能力が無ければ、それらの作品を読むことが出来ません。それは勿体ないことです。旧仮名で読む能力をつける一番良い方法は自分でも旧仮名を使ってみることです。旧仮名と新仮名の違いについてある程度の法則性はありますが、それよりも一つずつ辞書を引いて確かめることです。辞書を引けば、ついでに色々な情報を仕入れることも出来るのですから。(洋)  
       
       

令和6年3月号

  冬に入る路面電車の軋む朝            永井  透
   直接は関係のない二つを取り合わせたことが詩情を生んでいる。「軋む」が寒さを連想させるし、「路面電車」がレトロな町の佇まいを連想させるから。
  垣根より皇帝ダリアのびのびと          中谷 たか
   丈の高い植物である皇帝ダリアの様子が十分に表現されている。「のびのびと」という言葉には、あるいは皇帝ダリアを見た作者の心も表しているのかも知れない。
  平和とはかういふことか秋刀魚焼く        上松 順子
   思わず「そうですよね」と返事をしたくなる。普通の食材を普通に調理して普通に食べることが出来ることこそが、「平和」ということなのだろう。
  打豆の歯応へゆかし蕪汁             森谷留美子
   「打豆」は日本海側の雪国でよく食べられている大豆の保存食のこと。「ゆかし」という言葉に、作者の郷土に対する愛情が感じられる。
  庭園の母へ舞ひ散る紅葉かな           貝坂 明美
   散り紅葉を鑑賞しているお母様を優しく見守っている作者。吹いている風も穏やかなものであると想像でき、さぞ美しい散り紅葉であったことだろう。
     
   助詞の話をします。二月号の「詠歌吟月」で「も」や「は」は使わない方が良いと申し上げましたが。「は」を使うことで句に奥行きが出ることがあります。例えば今月号の高嶺集𠮷田鈴子さんの句〈手土産は栗の和菓子や足軽く〉がそうです。もしもこれが〈手土産の栗の和菓子や足軽く〉であると、読者の意識は「栗の和菓子」に集中してしまいますから、下五の「足軽く」が唐突に感じてしまいます。「手土産は」であるからこそ、「手土産は栗の和菓子、服装はこれこれ、持ち寄る話題はこれこれ」と、この人物についての読者の想像が色々と広がり、下五の「足軽く」が自然に感じます。
 このような助詞の使い方は実は難しいものです。自分では効果的と思っていても、事情を知らない読者からすれば不自然に感じることがあります。このあたりの呼吸は、人に読んでもらわないと分からないところです。そういう意味でも、句会に参加することは俳句の上達にとっては有効なことなのです。(洋)

 

 

 

令和6年2月号

  名月や糟糠の妻今は亡く             桑木 野勤  
   上五が「名月や」であるからこそ、中七下五の言葉が心に沁みる。この美しい月を、今は無き奥さんと一緒に鑑賞したかったという作者の気持ちが伝わって来る。  
  時を期し落葉してゆく桜かな           貝坂 明美  
   「時を期し」は来春に咲く花を期待しているということであろう。落葉するのはそれへの準備であるという作者の思いが感じられる。  
  手術後の病室の窓鰯雲              永井  透  
   手術後でまだ窓の外しか見ることの出来ない作者の、心許ない気持ちが「鰯雲」という季語に巧みに象徴されている。茫漠とした鰯雲には、そのような雰囲気がある。  
  秋晴の波音静か浮御堂              中谷 たか  
   浮御堂は琵琶湖の中にたつ堂。寺号は満月寺。「波音静か」の措辞によって天候の穏やかさが感じられる。地元の作者ならではの写生句である。  
  亡き人を偲び佇む彼岸花             上松 順子  
   「佇む」の主語は作者であるとも考えられるが、むしろ「彼岸花」であると取った方が面白い。彼岸花のすっくとした姿を思えば「佇む」と言うのが相応しいだろうから。  
       
   先月号とは逆に、上二段活用や下二段活用の動詞を、四段活用の動詞と間違えて使う例も見受けられます。四段活用の動詞では終止形と連体形は同じですが、上二段活用や下二段活用では別の形になります。例えば「山際を離れる満月を眺めた」という意味で〈山際を離る満月眺めけり〉という句を作れば、これは間違いです。「離る」は終止形ですから句は一旦ここで切れてしまい、「山際を離る。満月眺めけり」という意味になり、山際を離れたのは作者自身ということになってしまいます。ここは「離るる」という連体形を使わねばなりません。しかしそうすると字数が合わなくなるので、他の部分で工夫することになります。例えば〈山際を離るる月を眺めけり〉などと。(洋)  
       
       
       

令和6年1月号

  買つて来たわけにあらねど虫の声         増田孝之祐  
   自然の美しさを見聞きすれば心が安らぐ。しかも大抵はお金を出さずとも享受できる。それを有り難いと思っている作者の心が見えてくる。  
  栗剥いて餅米買ひにスーパーへ          羽柴 弘子  
   栗おこわを作られるのだろうか。「栗おこは」という言葉を使わずに、そのプロセスを描くことによって却って、出来上がったものに対する読者の期待感が膨らむ。  
  老いたとて青き空あり運動会           北  悦子  
   上五・中七はよく見られる表現。しかし下五の「運動会」という具体によって句が生き生きとしてくる。青空の下で体を動かしている作者の姿が見えてくる。  
  見渡せば大枝の里の柿たわわ           桑木野 勤  
   「大枝」は「おおえ」と読み、京都市西部にある地名。柿の名産地でもある。固有名詞を巧みに使い、実を結んだ柿の木が拡がっている情景が詠まれている。  
  竹藪に群れる雀や秋の暮             浦田  明美  
   田圃の近くにある竹藪であろう。落ち穂を啄んでいた雀たちが、何かに驚いて一斉に竹藪へ逃げ込む。昔ながらの日本の農村の一風景である。  
  電線に譜面を描く秋燕              貝坂 明美  
   南へ帰る準備を進めている燕たちが電線に多数とまっている。そのようすを作者は「譜面を描く」と表現した。燕の色、形、大きさならではであろう。  
  秋の田や赤米の色あざやかに           中谷 たか  
   赤米は穂の色も赤味を帯びている。それが田に一面に拡がっている情景は見ていて、他の種類の稲とは一味違った美しさを感じさせてくれる。  
   再び文法の話をします。初心者がよく犯す間違いとして、動詞の活用を取り違えるということがあります。例えば同じ「ハル」であっても「晴る」は下二段活用で、「貼る」は四段活用の動詞です。ですから「晴るる」という形はあっても「貼るる」という形はありません。それなのに字数合わせのためでしょうか、「貼るる」としている句がたまにあります。どの動詞が何活用かということは、辞書に書いてあります。そのような点でも、辞書を活用してもらいたいと思います。(洋)  

令和5年12月号

  平日も週末もなき残暑かな            田中土岐雄
   まさにその通りなのだが、上五・中七に表される執拗さには「残暑」が似合う。単なる「暑さ」や、逆に「余寒」ではそうはいかないだろう。
  蚊に刺され先輩の説じつと聞く          増田孝之祐
   誰しも体験したことだろう。先輩が話している時には、バチンと蚊を叩く音を立てるわけにもいかず、ただただじっとしていることしかできない。
  紅の色すこし濃くひき秋の街           羽柴 弘子
   秋という楽しい季節がやってきたから、お洒落もしてみたいもの。「秋の街」という言葉が華やかさを感じさせて効果的に使われている。
  曼珠沙華田を守るかに咲いてをり         堀  治子
   日本の農村の典型的な風景を巧みに句にしている。実は曼珠沙華は救荒植物であるとの説もあり、まさに田を守っていたのだ。
  夫とゐて言葉少なき良夜かな           北  悦子
   「言葉少なき」ということは、言葉が無くても分かり合えるということ。そのことは「良夜」という季語によく表れている。
  卓袱台を家族で囲む終戦日            桑木野 勤
   卓袱台という物も今の日本には少なくなってしまったが、かつては家庭団欒の象徴であった。戦争が終わって一家が共に夕食を食べることの出来るのは幸せなことだ。
  ふる里のバスの終点秋桜             浦田 明美
   表現は簡単だが、「秋桜」という季語によって、作者の故郷の様子が良く見えてくる。自然が多く、美しい空が広がっている所なのであろう。
   俳句を作る過程で一番楽しいことは何かと問われれば、私は「推敲だ」と答えます。俳句になりそうな素材を見つけてそれを取り敢えずの一句にしてから、語順を変えたり、同じ意味の別の言葉に変えたり、助詞を入れ替えたりしてみます。その際に大切なのは、自分の目で俳句を見るのではなく、少し意地悪な他人の目で見ることです。「これでは意味が分からない人がいるのではないか」「この表現は不自然と思う人がいるのではないか」という目で見ます。そのような訓練が、広い意味で「他人の気持ちを汲むことが出来る」ということに繋がるのではないでしょうか。(洋)
     

令和5年11月号

  足の裏くすぐる水の涼しさや           山田 則子
  視覚や聴覚よりも時によっては皮膚感覚の方が人の心に強く訴えかける。「くすぐる」の一語によって水の流れの気持ちよさが読者に伝わってくる。
  木漏れ日のまだらに照らす無言館         城山  実
   木漏れ日なのだから「まだら」なのは当たり前なのだが、「無言館」という言葉と合わさると、戦争で死んでいった若者達の無念さを象徴しているようでもある。 視覚や聴覚よりも時によっては皮膚感覚の方が人の心に強く訴えかける。「くすぐる」の一語によって水の流れの気持ちよさが読者に伝わってくる。
  太夫の名刻む橋ありのうぜん花          髙橋 貞子
   遊郭跡であろうか。よほど有名な太夫であったのであろう。その名の刻まれた橋ということに情緒を感じる。やわらかく揺れている凌霄花が良く合っている。
  夕虹や琵琶湖一周二百キロ            田中土岐雄
   自転車で琵琶湖岸を一周するのが流行っているとか。作者もそれを実践されたのだろう。「夕虹」という季語に、達成感が感じられる。
  ビール飲むさかなの豆はアルデンテ        増田孝之祐
   「アルデンテ」は普通パスタの茹で加減に使われるが、敢えてそれを枝豆に使ったことで、作者の心のゆとりが感じられる。
  美しく縄目そろひて鉾建ちぬ           羽柴 弘子
   祇園祭の鉾は釘を使わず縄だけで組み上げられる。「美しく」という言葉は、見た目の美しさだけで無く、技術や伝統に対する敬意も含まれているのだろう。
  白日傘白ワンピースの影黒し           堀  治子
   白い服であっても地に落ちる影は黒い。当然のことだが改めて言われると、はっとする。夏の眩しい日差しであるからこそ、白と黒の対比が一層際立つ。
  夏布団蹴られけられて一夜明け          北  悦子
   私にもよくあることだが、寝苦しい夏の夜の様子がよく表れている。「蹴られけられて」と繰り返されているのが効果的である。
  つつましく独り昼餉の冷奴            桑木野 勤
   「つつましく」とは言え、蝉の声や風鈴の音も聞こえてきそうだ。「ひとりのひるげひややっこ」と「ひ」の音を重ねていることでリズムが生まれている。
   俳句の醍醐味はやはり皆で集まってお互いに批評し合うところにあると思います。批評し合うことによって、一人では気付かなかった句の魅力を知ることもあるからです。その意味では、俳誌や句会など批評のための場が多く用意されている「結社」というものは、俳句の発展のために優れた制度であると思います。(洋)
     

令和5年10月号

  母の日やスキップの手に花一輪          山田 則子
   スキップしているのは、お母さんにカーネーションをプレゼントしようとしている子供であろうか。「花一輪」であることに可愛らしさを感じる。
  五月雨や出かけるところなくもなし        城山  実
   「なくもなし」という二重否定が、梅雨時の鬱屈とした気分を象徴している。雨の中を出掛けるのも大変なことのだが。
  河骨に墨絵のやうな鯉の影            髙橋 貞子
   一幅の日本画のような句。それこそ墨絵のような佇まいがある。季語「河骨」は動かない。蓮のような華やかな花では、「墨絵のやうな」が生きてこない。
  万緑や手から溢るる沢の水            田中土岐雄
   季語を「泉」とせずに「万緑」としたことで、句に奥行きが出た。中七・下五の表現に、掌を流れる水の冷たさが感じられる。
  梅雨晴を待つて珈琲豆を煎る           増田孝之祐
   コーヒー豆を煎るときのあの良い香りを満喫するには、やはり晴れた日の方が良い。「待つて」の一語に、作者の心の躍りが感じられる。
  薄暗き御堂を出れば夏の雲            羽柴 弘子
   堂の中の暗さと、堂の外の明るさの対比が印象的な句。明るさを表すのに「夏の雲」という季語が巧く使われている。真っ白に輝く雲なのであろう。
  夏空やポプラ並木の地平線            堀  治子
   遠景二つを合わせて大きな風景を描き出した。延々と続くポプラ並木と、明るく広がる夏の空に、読む者の心も広々としてくる。
  煮魚に刻む生姜や梅雨明ける           北  悦子
   日常の些細な事でも、観察眼と詩心があれば俳句に出来るという良いお手本だ。生姜の爽やかな風味が「梅雨明け」と良く合っている。
  風鈴の音色を耳に夕餉かな            桑木 野勤
   まさに日本の夕食の風景と言っていいような情景。一日を静かに終える作者の姿が見えてくる。昨今はこのような風景も少なくなってきていて残念なことだ。
   嵯峨野俳句会では俳句は旧仮名で書くことになっています。「現代では日常生活のほとんど全ての文書を新仮名で書くのに、俳句だけ旧仮名で書くのは時代遅れではないか」と思われるかも知れませんが、旧仮名をマスターしていると旧仮名で書かれた時代の俳句の鑑賞に大いに役に立ちます。ついでだと思って勉強してみてください。ただ、初心者の段階ではあまり気にすることなく、指摘される度に一つずつ覚えていくようにすれば良いでしょう。(洋)
     
     

令和5年9月号

  春の日や迎へる姉は押し車            山田 則子
   「押し車」は杖代わりの車のことであろう。寂しい印象のある言葉であるが、「春の日」という季語がそれを中和している。作者を迎えるお姉さんの笑顔が見えてくる。
  薔薇咲くやこの色この香退院日          城山  実
   「これ」「あれ」などの言葉は俳句では使わない方が良いとされているが、この句の場合は退院の喜びを表すために効果的に使われている。
  縄文の息吹を今に椎若葉             高橋 貞子
   椎の実は縄文人の主食であったと言われている。その椎の木の若葉であればこそ、「縄文の息吹」という言葉が活きてくる。
  少年の膝に赤チン昭和の日            田中土岐雄
   昔の子供はよく外で遊び、よく怪我をしたものだ。まさに「赤チン」は昭和の象徴と言っても良いであろう。最近はとんと見なくなったが。
  こぶ木さんと名付けし古木新芽ふく        増田孝之祐
   瘤のある老木だろう。作者はそれに親しみを感じて「こぶ木さん」と名付けた。枯れずに新芽が出て来たことを、作者は心より喜んだことであろう。
  こどもの日めだか五匹を連れ帰る         羽柴 弘子
   子供へのお土産であろうか。小さい「めだか」であるところが面白いし、「連れ帰る」という言葉も面白い。なお季語としては「こどもの日」の方が強いと見るべきだろう。
  子等の声のせてとびくるしやぼん玉        北  悦子
   子供達がはしゃぎながらシャボン玉で遊んでいる様子を、「子等の声のせて」と表現したところが面白い。そう言えばシャボン玉には子等の息が詰まっていることだし。
  風鈴の音色軽やか無人駅             桑木野 勤
   無人駅であっても風鈴が吊されていることに、関係者の駅に対する愛情が感じられる。また、駅周辺の自然に包まれた環境も想像されて爽やかな気分になる。
  紫陽花の池の宴席蝶も来て                  堀  治子
   紫陽花の色と蝶の色。色彩豊かな風景が目に浮かんでくる。家の水面に映った紫陽花の色も含めて、さぞや楽しい宴席であったことだろう。
   今回は九名の賑やかな体験入会欄となりました。コロナ禍も下火になり、様々な会合が再開したことで、会員・同人の方々がお知り合いを体験入会に勧誘して下さる機会が増えたのでしょう。体験入会制度は、俳句を知らない方に俳句や嵯峨野俳句会へ親しむ最初の機会を提供する格好の制度です。これからも体験入会が賑わうことを期待しています。 (洋)
     
     

令和5年8月号

     
  松の枝微動だにせず春の雨            篠塚 歴山
   静かに降る春の雨の様子が「微動だにせず」の語に巧みに表現されている。「松の枝」も適切な言葉で、これにより端正な日本庭園が想像できる。
  ぶらんこを漕いで母待つ幼かな          山田 則子
   一心に母親を思う幼子の心がブランコの揺れに象徴されている。ブランコは楽しくもあるが、一方で淋しげな遊具でもある。
  声弾む退院の日や若楓              城山  実
   二句前の句と比べて何と明るい句であろうか。退院の嬉しさが素直に表れている。「若楓」の明るさが目に眩しく感じられる。
  むらさきに煌めく烏風光る            髙橋 貞子
   烏の羽の色を「むらさき」と表現したところが独創的。確かに光の加減によってはそのようにも見えるものだ。「風光る」の季語によって「むらさき」が説得力を持つ。
  つちふるや見知らぬメール届きをり        田中土岐雄
   黄砂が降ると何かと厄介なものだが、それを迷惑メールと結びつけたところが現代的である。迷惑メールに対して感じる不安感が「つちふる」によく象徴されている。
  囀や足早になる朝散歩              増田孝之祐
   爽やかな朝の空気が感じられるような、気持ちの良い句だ。「足早になる」という言葉に作者の気持ちが表れている。
  春あらし術後の夫の吐息きく            羽柴 弘子
   手術後のご主人の容態を心配する気持ちが「春あらし」という季語に象徴されている。「吐息きく」に作者の繊細な心が感じられる。
   歳時記を見ていると色々な季語が載っています。聞いたことのない植物や、行事なども載っています。それを見るにつれ、日本語の豊かさを改めて思います。歳時記をもっと活用していきたいものです。辞書として使うだけでなく、読み物としても使いたいものです。特に初心者の方は、小型の持ち歩きしやすい歳時記を買ってください。そして常に持ち歩いて時間がある時は切れ切れでも良いので読んでください。そうすれば俳句の実力は確実に付いていきます。 (洋)
     
     

令和5年7月号

  春の日や迎へる姉は押し車            山田 則子
   「押し車」は杖代わりの車のことであろう。寂しい印象のある言葉であるが、「春の日」という季語がそれを中和している。作者を迎えるお姉さんの笑顔が見えてくる。
  薔薇咲くやこの色この香退院日          城山  実
   「これ」「あれ」などの言葉は俳句では使わない方が良いとされているが、この句の場合は退院の喜びを表すために効果的に使われている。
  縄文の息吹を今に椎若葉             高橋 貞子
   椎の実は縄文人の主食であったと言われている。その椎の木の若葉であればこそ、「縄文の息吹」という言葉が活きてくる。
  少年の膝に赤チン昭和の日            田中土岐雄
   昔の子供はよく外で遊び、よく怪我をしたものだ。まさに「赤チン」は昭和の象徴と言っても良いであろう。最近はとんと見なくなったが。
  こぶ木さんと名付けし古木新芽ふく        増田孝之祐
   瘤のある老木だろう。作者はそれに親しみを感じて「こぶ木さん」と名付けた。枯れずに新芽が出て来たことを、作者は心より喜んだことであろう。
  こどもの日めだか五匹を連れ帰る         羽柴 弘子
   子供へのお土産であろうか。小さい「めだか」であるところが面白いし、「連れ帰る」という言葉も面白い。なお季語としては「こどもの日」の方が強いと見るべきだろう。
  子等の声のせてとびくるしやぼん玉        北  悦子
   子供達がはしゃぎながらシャボン玉で遊んでいる様子を、「子等の声のせて」と表現したところが面白い。そう言えばシャボン玉には子等の息が詰まっていることだし。
  風鈴の音色軽やか無人駅             桑木野 勤
   無人駅であっても風鈴が吊されていることに、関係者の駅に対する愛情が感じられる。また、駅周辺の自然に包まれた環境も想像されて爽やかな気分になる。
  紫陽花の池の宴席蝶も来て                  堀  治子
   紫陽花の色と蝶の色。色彩豊かな風景が目に浮かんでくる。家の水面に映った紫陽花の色も含めて、さぞや楽しい宴席であったことだろう。
   今回は九名の賑やかな体験入会欄となりました。コロナ禍も下火になり、様々な会合が再開したことで、会員・同人の方々がお知り合いを体験入会に勧誘して下さる機会が増えたのでしょう。体験入会制度は、俳句を知らない方に俳句や嵯峨野俳句会へ親しむ最初の機会を提供する格好の制度です。これからも体験入会が賑わうことを期待しています。 (洋)
     
     
  しやんしやんと日に揺るぎをり花あしび       奥田 早苗
   「しやんしやん」は鈴の鳴る音の擬音であろう。鈴のような形の馬酔木の花からの連想ではあろうが、春の弾むような気持ちを表しているとも言える。
  深川を一人歩める花曇               篠塚 歴山
   深川には芭蕉庵もあり、往時に思いを馳せながら散策するにも適切なところであろう。往時を偲ぶ心を表すのに、「花曇」の季語が効いている。
  回り道母に土産の土筆つむ             山田 則子
   「回り道」という言葉が効いている。お母さんの好きな土筆を摘んでいこうと、わざわざ回り道をした作者の温かい心が感じられる。
  沈丁や点滴落ちてゆく夜半             城山 実
   沈丁花という香りの強い花を季語としたことが成功している。点滴の間の動けない時間を、ただ沈丁花の香りだけを頼りに過ごしている作者の姿が見えてくる。
  園児らの畑の二畝麦青む              髙橋 貞子
   幼稚園にある畑であろう。「二畝」という小ささがいかにも園児らの畑らしい。「麦青む」という若々しい印象が、「園児ら」とよく合っている。
  うららかや郵便も乗る島渡船            田中土岐雄
   一つ前の句と合わせて、土地の人々の生活がよく見えてくる句。島の人や、必要なものを乗せている小さな船であることが想像できる。
   俳句ができないときの対策のもう一つが、他の人の俳句を読むことです。いわゆる名句を読んでいると、頭が俳句モードになってきて、言葉が浮かんでくることがしばしばあります。その際に重要なのは、必ず音読するということです。目だけでなく耳からも言葉を注入する方が、頭を俳句モードにするには効果的ですから。
 また、自分の以前の句を読んでみるのも一つの方法です。そして自分で添削をしてみて下さい。そうすればきっと新しい発見があるはずです。(洋)
     

令和5年6月号

  女坂雪解雫の音の中                            小川 幹雄
   「女坂」という言葉が上手く効いている。これによって雪解雫のリズムの穏やかさや、さらには木の間より差し込む日の光までが見えてくる。
  節分草かんばせ上げよ日を集め           奥田 早苗
   白い花の節分草であるからこそ「日を集め」という表現もぴったりとくる。呼びかけている形にしているのが面白いが、或いはこれは人に呼びかけているのかも知れない。
  早春や鷗外の書とデスマスク                 篠塚 歴山
   通信欄によれば森鷗外記念館を訪れたときの作であると。早春の未だ肌寒い空気と「デスマスク」という言葉の持つ緊張感とが響き合っている。
  冬日和散歩を孫に励まされ                   山田 則子
   「冬日和」の季語によって、作者が散歩を楽しんでいることが分かる。また「励まされ」の言葉によって、作者とお孫さんとの良き関係も見えてくる。
  寒村に陽射し柔らか蕗の薹                    城山 実
   「寒村」という寂しげな言葉から始まったが、「陽射し」「蕗の薹」と温かみのある言葉が続いているのが好ましい。沢山出て来た蕗の薹が、村の子供達を連想させる。
 
 俳句が出来ないときはどうすればよいでしょうか。方法は二つあります。ひとつはとにかく家の外に出て自然を見ることです。美しい花や空を見て、心の洗濯をしてみて下さい。その際に重要なのは「俳句を作ろう」とは思わないことです。「俳句を作るために自然を見る」と意識してしまうと、自分がそれまでに作った俳句の複製のようなものしか出来ません。あくまで美しさに感動することに集中して下さい。景色に心が動けば自然に言葉が浮かんできます。或いは、人に会っても良いかも知れません。大好きな人に会って会話をしていると、自ずと心が動いてきます。
 このように、自分の心を動かしていると、かりに俳句が出来なくても、それはそれなりに有効な時間を使うことが出来るでしょう。
 さて、俳句が出来ないときの対応策の二つ目については来月申し上げます。(洋)
     
     

令和5年5月号

     
  バゲットの頭に宿る冬日かな           小川幹雄  
   「バゲット」は所謂「フランスパン」のこと。背の高く、買い物籠から頭を出したバゲットの頭に冬の日が当たっている。ほんのり暖かい雰囲気がありがたい。
  寒波来る烏ひと声鳴きにけり           奥田早苗  
   句から、寒気を切り裂くように鳴く烏の姿が見えてくる。上五を「来る」と終止形を使って切ったことで、烏の声の鋭さが際立っている。
  まづとりし千枚漬や京の旅             篠塚歴山  
   作者は千葉の方であるから、京都への旅は一入こころに響くものがあったのだろう。京都を代表する物として「千枚漬け」を選んだのは納得できる。
 

 俳句を思いついたらできるだけ手帳に書き留めておくようにしましょう。「つまらない句」「不完全な句」と思っても書いておく方が良いです。書き留めておけばあとで推敲する時の材料にすることが出来ます。逆に書き留めておかないと、折角良い句材を思いついたとしても、生活の忙しさの中で忘れてしまうことがあります。また「良い句だ」と頭の中で思っても、実際に文字にしてみると言葉の重複があることに気付いたりすることがあります。
 この頃の若い人はスマートフォンをメモ帳代わりにしているようですが、少なくとも私のような昭和三十年代生まれ以上の方は、紙に鉛筆やペンで書くことの方が良いようです。自分の手で字を書くことによって頭が「言葉処理モード」になって色々と言葉が思いつくようです。
 最後に、俳句を書き留めておくことの最大の長所は、手帳のページが埋まっていくと、「ああ、私もこんなにたくさん俳句を作ったのだ」と自信に繋がっていくことです。(洋)

 

 

 

令和5年4月号

  大根のラインダンスや富士裾野                   山内志津子
   何列にも干されている大根を「ラインダンス」と表現した面白い句。そして面白いだけでなく「富士裾野」と大きな景色を背景において、清々しさも感じられる。
  岸の灯を流れに沈め冬の川                        小川 幹雄
   冬ざれの景色の中であっても、一つの灯火を出すことによってささやかな暖かさが感じられる。しかしそれも流れに沈んでいるところが、冬の厳しさであろう。
  高き波一途に立つや野水仙                        奥田 早苗
   「一途に」という語によって、波の高さ、力強さが伝わって来る。合わせる「野水仙」という季語も又力強く、両者が巧く響き合っている。
 

 誰でも身近に、最も素晴らしい師を持っているものです。自分のことがよく分かっていて、感性もよく似ていて、自分がどのような点で間違いをするかをよく知っている師を、誰でも一人持っています。それは一年後の自分です。句を作ったときには思いが強すぎて、その句の欠点が見えないことがあっても、一年経って、色々な人の句を読み、また自分でも色々な句を作っていると、かつて作った自分の句の欠点が見えてくるものです。今から一年後に自分の句を読み直してみて下さい。どう添削すれば良いかが分かるでしょう。ですからその意味でも、俳句を長く続けることは大切なのです。
 でも、もし一年後読み直してみて尚、欠点が分からなければどうすればよいのでしょう?その時は、さらにもう一年待てば良いだけのことです。(洋)

 

 

 

令和5年3月号

  小春日や外堀の鯉頭出し                          長谷川和枝
   穏やかな晴天の中を気軽に散策している作者の姿が見えてくる。頭を水面に出した鯉に、自分の心を象徴させているところが面白い。
  月食の夜や木犀の香の幽か                        髙橋 昭代
    月食に木犀を合わせたところが面白い。神秘的に感じる月食と、木犀の芳香とは確かに通い合うところがあるように思われる。
  出来不出来風に任せて柿吊す                      山内志津子
   干し柿を作るには日差しが大事だと思われがちだが、意外にも風が大事なのだとか。掲句はそのことを説明にならずに、詩情豊かに表現している。
  ひしひしと運河波立つ十二月                      小川 幹雄
   「ひしひしと」という斬新な擬態語が効果的に使われている。人ならぬ運河までもが年末の慌ただしさの中にあるようだ。
  信心の山道灯す石蕗の花              奥田 早苗
  情景がよく見えてくる句。「寺」の文字はないが、寺への参道であることは他の言葉から分かる。明るい石蕗の花であればこそ、「灯す」という言葉も活きてくる。
     
   俳句では季語が重要な働きをします。私がまだ俳句を始めたばかりの頃「俳句というのは十七文字で短い上に、季語という予め決められた言葉を使わなければならないのだから、自分が自由に言える部分なんてほとんど無い」と思っていました。しかし今ではそれは間違いであると分かります。 俳句は季語があるからこそ短くても自分の言いたいことが言えるのです。  つまり、自分の気持ちを季語に象徴させるのです。自分の気持ちを季語で表現するので、短くても言いたいことが言えるのです。
 どの季語がどのような気持ちを表すのかについては、歳時記の例句を読んで勉強してみて下さい。 (洋)
     
     

令和5年2月号

  庭園の菊人形の香りかな                    長谷川和枝
   菊人形の香りに特に注目したところが面白い。香りを詠んではいるが、同時にそれによって菊人形の様子や、さらには庭園の佇まいまでもが感じられる。
  露天湯にひと葉のひらり秋ゆるり            髙橋 昭代
    「ひらり」と「ゆるり」という擬態語の対照が巧みに使われていて、読んでいるだけで気持ちがほぐれていくような感じがする。
  コスモスや風をかはしてケセラセラ         山内志津子
   コスモスは風に揺れやすい花だから、風と合わせる句は多い。問題は揺れている様子をどう捉えるか。作者は「かはして」と捉えた。新しい視点であろう。
  稲穂垂れて一粒ごとの日差しかな            小川 幹雄
   「一粒ごとの日差し」という言葉に、農夫の苦労やそれを称える作者の気持ちが表れている。豊作の田の情景が見えてくる。
  つくばひに映る青空松手入                    中間 一司
   使われている言葉によって、上品な日本庭園が見えてくる。季語を独立させて背景を丁寧に描写するという、俳句の骨法をよく心得た句である。
  何出づる夕顔の実の重きかな                 奥田 早苗
   夕顔の実のあの大きさ、重さに対して「中に何が入っているのだろう、何が出て来るのだろう」と表現したところが面白い。的確な表現でもある。
     
   投句用紙に清書する前には、必ず辞書を引いて、誤字が無いかを確認してください。自信のある漢字であっても、場合によっては間違えて覚えていることがあります。俳句をすることの利点の一つは言葉を覚えることであるとは、松尾芭蕉も言っていることです。
 最近では電子辞書もあり、紙の辞書よりも簡単に引くことが出来るようになりました。また紙の辞書にも紙の辞書なりの良さがあります。それは、目的とした言葉以外の言葉でも自然に目に入ってしまうということです。そうやって自分の語彙力を増やしていくことは、今後俳句を作るにもきっと役に立つことでしょう。 (洋)
     
     

令和5年1月号

  蜩や考へあぐね墓じまい                      北村 素子
   「蜩」の季語が効果的に使われている。その場の情景の描写であるとも考えられるし、ある期間の終了を表す象徴とも考えられる。
  食卓のカラフル野菜秋香る                    長谷川和枝
   収穫の秋を色彩によって表現した句。また下五を「秋香る」としたことも工夫が効いている。視覚と嗅覚の二重奏で秋が表現されている。
  秋桜を抱へて友に会ひに行く           髙橋 昭代
   「秋桜」という季語が効いた爽やかな句。「抱へ」ているのはコスモスだけではなく、この友人への思いもあるのだろう。
  蕎麦の花一足先に地を染める           山内志津子
    「地を染める」の語で、一面の蕎麦畑が連想できる。これから色々な作物が実ったり草紅葉などでも地が染められていくことだろう。
  古家の裏のカランに秋の風                     小川 幹雄
   「カラン」は「蛇口」のこと。庭に水を撒くために設けられた水道であろうか。今はもう使われていない蛇口を、寂しく秋風がよぎっていく。  
  川向うに大文字山秋彼岸             中間一司
   中京区辺りから見た景色であろうか。京都市の風景の一部を切り取っただけなのに、不思議と「秋彼岸」という季語と合っている。秋晴れのすがすがしさが感じられる。
     
   文法の話をすると大抵の人は嫌な顔をされますが、文法は覚えておいた方が良いです。と言いますのは、文法というのは基本的に「自然に聞こえる言葉遣いをまとめたもの」だからです。文法違反の言葉遣いは、その言葉に詳しい人にとっては不自然な言葉遣いになります。それは例えば「学校へ行く」というのが自然な言葉遣いであるのに対して「学校を行く」が不自然に感じるのと同じことです。
 文法を勉強するには、教科書を買って勉強する方法もあるでしょう。しかしもっと手っ取り早くは、句会などで先達から教えて貰ったことを一つずつ覚えていくことです。(洋)
     
     

令和4年12月号

  地蔵盆おでこにちよんと数珠の房         北村 素子
   「おでこにちよんと」という言葉がいかにも子供の動作を表していて、かわいらしい。ひらがなで表記しているところも心配りが効いている。
  汗拭いて句会の便りまじまじと              長谷川和枝
   通信句会の結果報告の便りであろうか。自分の出した句がどのような評価を得たかと思うと、心もどきどきとすることであろう。「汗拭いて」が効果的に使われている。
  灯りゆく松上げや川更けゆきて         髙橋昭代
   「松上げ」は京都から丹後にかけて八月に行われる勇壮な火祭り。掲句では、今からその松上げが行われる期待感が表現されている。
  三世代集ふ場となる地蔵盆           山内志津子
   地蔵盆も今では盛んでなくなった地域も多いと聞く。しかしこのような行事は是非とも残ってほしいものだ。今では世代間交流の場ともなっているのだから。
     
   今月も推敲の話をします。推敲の際によくやってしまう間違いが、自分の句をより個性的に独創的にしてしまうということです。創作活動をしている者としては、自分の作品を独創的な物にしたいところではありますが、あまり独創的にしてしまうと他の人が見て情景が分からなくなってしまいます。作っている本人としては、元になる情景を知っていて作句していますから情景が分からないと言うことはあり得ませんが、読む方としては句にある言葉だけが頼りです。推敲の際には、自分の句に対して少し意地悪な気持ちになって「この言葉の並びで誤解されることはないだろうか」と考えてみてください。(洋)
     

令和4年11月号

  簾掛け広い座敷の昼餉かな                髙橋 賀代
   一読、涼しげな和室が目に浮かぶ。「朝餉」や「夕餉」ではなく「昼餉」であるところも面白い。蝉の声や吹き抜ける風までもが感じられる。
  テント張る木の間の青き日本海           北村 素子
   キャンプ場の様子が見えてくる。木の間に僅かに見えていると言うことが却って海の広さを感じさせてくれる。「青き」はこの場合は「明るい」ということだろう。
  朝の日の茄子の紺に照り返し           長谷川和枝
   茄子の滑らかな表面に照り返す朝日の眩しさが感じられる。それだけでなく、この茄子の美味しさや、育てた人の心意気までが感じられる。
  廃屋やここにゐるよと百合の花          髙橋 昭代
   百合という丈の高い、そして大きな花であるからこそ「ここにゐるよ」という表現も納得がいく。自己主張しているような派手さがこの花にはある。
  海沿ひのテラスや青いソーダ水          山内志津子
   歌謡曲に出て来そうな一場面。海の青さとソーダ水の青さ。色調の違う青を並べたところが絵として面白い。当然空の青さもあるのだろう。
     
    句を投句用紙に清書する前には必ず推敲をして下さい。推敲するときにまず気を付けるのは「誤字が無いかを確かめる」ということです。自信の無い漢字は必ず辞書を引いて確認して下さい。また旧仮名で自信の無い言葉も辞書で確かめて下さい。旧仮名に関するよくある間違いで、「え」と発音される字を全て「へ」で書くということがあります。「え」と発音される字を旧仮名で書いた場合「え」で書く場合、「へ」で書く場合、「ゑ」で書く場合があります。これも辞書で確かめて欲しいところです。
 大変なようですが、俳句を勉強する利点の一つは、言葉を覚えるということにもあります。辞書と親しんで欲しいと思います。(洋)

令和4年10月号

  風薫る記紀を鞄に明日香まで           新谷 雄彦
   古典文学を愛している作者の姿が見えて来る一句。「風薫る」の季語に、古典を敬愛する気持ちが表れている。風薫る季節の明日香は美しいことであろう。
  くちなしの香りゆつたり朝の庭          髙橋 賀代
   山梔子の芳香を楽しみながらゆったりとした朝を過ごされているとは、うらやましい限り。下五を「朝の庭」としたことで、庭にある他の植物も想像される。
  雨蛙蕾に座りご挨拶                         長谷川和枝
   雨蛙は小さな蛙。だからこそ「蕾に座り」という表現も納得できる。雨蛙が屈んでいる様子を「ご挨拶」と形容したのも面白い。
  驚いて転けて擦りむき半夏生           北村 素子
   俳句では「…て」は避けるべきとされている。しかしそれも内容次第で、この句では「…て」の繰り返しが軽快なリズムを作っている。怪我も軽傷であったことだろう。
  語りつつ歩けばすでに紫陽花寺             髙橋 昭代
   作者の住所から推察すればこの「紫陽花寺」は三室戸寺であろうか。友人と連れだって参拝したときの楽しげな様子がうかがえる。 
     
   俳句上達のこつはなんと言っても「多く作って、多く読む」ということです。それによって俳句の調べというものが身についてきます。八月号の本欄でも書きましたが、俳句とは「十七音の短文」ではなく詩なのですから、「調べ」ということは一番大切です。
 また、俳句上達のためには句会に参加することが効果的です。自分の句に対する感想を直接聞くというのは大変勉強になります。是非参加して頂きたいと思います。(洋)

令和4年9月号

  連休も猫と留守番若葉風 髙橋 能美
     ゴールデンウィークの期間を家に籠もっていた作者。しかし猫と一緒であれば退屈はしなかったであろう。「若葉風」の季語が、そのことを感じさせる。
  夜に入りてなほ芳しき茶摘かご  仲野 由美
   茶摘み籠にも当然摘んだ新茶葉の香は移る。しかし昼の間は茶葉の方に意識が向き、籠に残っている香には気付かない。夜になって改めてそれに気付いたという感性。
  笠智衆にも似て寡黙暑に耐ふる 新谷 雄彦
   懐かしい名を目にした。名脇役がいてこそ映画は成立する。その気概を持って暑さに耐えている作者の姿がここにはある。
  母笑むやアスパラガスを供へれば 髙橋 賀代
   上五を読んだ時点では実際にお母さんがその場におられると思うが、最後まで読めばお母さんの笑顔を思い出しているのだと分かる。お母さんの好物だったのだろう。
  友の声嬉し懐かしうららけし   北村素子
   友との再会を喜ぶ気持ちを素直に表した句である。「嬉し懐かしうららけし」の「し」音の繰り返しにもそれが感じられる。
     
   皆さんのおかげで体験入会の会員も徐々に増えてきています。体験入会制度は、俳句や嵯峨野俳句会を知っていただくための有意義な制度です。有効に活用していただきたいと思います。俳句はやはり他者に作品を見て貰って意見を聞いてこそ、その醍醐味を味わうことが出来るものです。「座の文芸」である俳句への第一歩として、嵯峨野俳句会体験入会を活用していただきたいものです。(洋)

令和4年8月号

  棟梁のけんずいコーヒー桜もち 髙橋 能美
   「けんずい」はおやつの意味だが、「おやつ」では「棟梁」と釣り合わない。休憩時間にコーヒーと桜餅で一息ついている大工の棟梁。春の野穏やかな時間が感じられる。
  ありがとう届かず母の逝きし春 仲野 由美
   肉親の死は常に悲しいものだが、感謝の言葉を届けられないままであれば尚更であろう。一般的には楽しい季節である「春」なればこそ、悲しみは一入であろう。
  ヨット過ぐ片手に軍手嵌めしとき 新谷 雄彦
   作者が手袋を嵌めた時にヨットが目の前を過ぎたことは偶然であろう。しかしこの二つの事象を並べたことによって、あたかも作者がヨットに乗っているかのような印象が立ち現れる。
  山桜川の響きに散りにけり 髙橋 賀代
    桜の花は散りやすいものだが、こういう風に句にすると、あたかも川の音で散っているようにさえ思え、桜の特徴が良く感じられる。また、川面を染める落花の美しい様子も想像できる。
  老犬の安寧寝相花水木 北村 素子
   漢字主体の構成が面白い。荘重さを感じさせるこの構成が、却って大袈裟さに転化して、心やすさを読者に与える。この老犬もぐっすりと眠ったことであろう。
     
   俳句の初心者の人がよくやってしまう過ちとして、「十七音の短文を作ってしまう」ということがあります。確かに名句と言われるものの中には普通の散文のような構成の句もありますが、一般的に言えば十七音というのは文章として構成するにはあまりに短いものです。その短さで文章を綴ろうとすれば当然に舌足らずなものになってしまいます。むしろ俳句は「物もしくは事柄を二つ並べて置いて、その二つの間の関係については読者に想像して貰うもの」と思ってください。その方が十七音という短さを効果的に使うことが出来ます。(洋)
     

令和4年7月号

  息災に年を重ねて雛納 高橋 能美
   「息災に」は勿論作者のことであるが、ひな人形のことでもあると思われるのが面白い。大事に伝えられてきた雛人形なのであろう。
  潮騒を背に暖簾割る真砂女の忌 新谷 雄彦
   「暖簾割る」は「暖簾を分け入って店に入る」の意味であろうが、なんとも粋に響く言葉遣いだ。季語ともよく合っている。
  乞田川の水面をなでて春の風 高橋 賀代
   「乞田川(こったがわ)」は東京都多摩市を流れる一級河川。「水面をなでて」の措辞によって、川面の細波が連想される。まさに、「春の風」の穏やかさだ。
     
   新型コロナウイルス感染症が影響しているのか、体験入会の数がこの頃減っています。人と人が会う機会が減っているので勧誘活動がなかなか出来ないからでしょう。それでも新入会員がいるということはありがたいことです。俳句の面白さを多くの人が知っていただければと思います。 (洋)

令和4年6月号

  断捨離を邪魔する猫と日向ぼこ 高橋 能美
   邪魔をされても嫌がってはいない様子が「日向ぼこ」という季語から察せられる。案外作者は断捨離をしたくなかったのかも知れない。
  太閤のうぐひす餅はきなこ色 仲野 由美
   うぐいす餅の起源は、豊臣秀吉の弟の秀長が「とにかく珍しい菓子を作れ」と命じたことだとか。そう思って見れば、まぶすきなこも黄金色に見えてくる。
  春雨の京の町家ゆ機の音 新谷 雄彦
   「春雨」という季語が、静かさや歴史性を表すのに巧みに使われている。雨音や機音があるが故の静かさというのも京都ならではだろう。
  老医師はまだ健在で梅香る 高橋 智代
   「梅香る」の季語の選択が実に適切。温かさを連想させるこの季語によって、作者とこと老医師との親しさが感じられるし、医師にたいする感謝の気持ちも感じられる。
     
   俳句は十七文字という極めて短い形式です。それにも拘わらずに自分の思いを伝えることが出来るのは、季語があるからです。嬉しいとか悲しいといった作者の気持ちを季語に象徴させるからこそ、残りの十数文字でその場の情景を描写して、一編の詩とすることができるのです。季語の力を十分に活用した句を作ってほしいものです。(洋)

令和4年5月号

  面打ちへ伸ぶる足先寒の入 水科 博光
   剣道の寒稽古であろうか。「面打ち」と手の動きを読者に示してから「足先」としたところが、意表を突く表現であり、また正確な描写でもある。
  平和なる年の始めをかみしめる 武居由美子
   毎年そう感じることではあるが、コロナ禍にある今年は特にそう感じるところだ。多くの人の共感を得られる句であろう。
  重箱のごまめばかりが残りをり 高橋 由美
   面白い点に目を付けられた。それぞれの家庭で違いはあるだろうが、お節料理は家族の好きな物からなくなっていくものなのだから。
  蘖やかくも短き詩に執し 新谷 雄彦
   俳句を続けられておられることが、作品から窺える。「蘖」の季語が巧く働いている。俳句活動を続けることを蘖で象徴しているのだろう。
     
   斬新な俳句とはどのような俳句でしょうか? よく、「今まで目にしたことのない珍しい光景に出会ったので、そのような光景を俳句にしてみた」という人がいますが、そのような光景を俳句にすることは実は難しいことなのです。作者がそれまで見たことのない情景というのは、他の人にとっても見たことのない光景と言うことで、その珍しい光景を十七文字で伝えるのは難しいからです。むしろ、俳句における「斬新さ」とは「事実としては誰でも知っているが、その事実を捉える新しい視点」ということになるのではないでしょうか。(洋)

令和4年4月号

  小春日のわが老犬は空へ逝く 出江 忠子
   十二月号に出ていた西瓜の好きな犬であろうか。温かな小春の日であることが却って作者の悲しみを強くする。冥福を祈るばかりだ。
  冬晴ぞ群雀どちこれも喰へ 水科 博光
   晴れ渡った空。声を上げながら集まる雀、そしてそれにえさを与えている作者と、明るい雰囲気のものが揃っている楽しい句。
  青木の実淋しき庭のはなやぎぬ 武居由美子
   青木の実は赤く、しかも南天などと比べて大きい。それがあると思うだけで、冬枯れの庭が華やいで感じられるものだ。
  顔見世の贔屓の招きまた消えて 高橋 能美
   顔見世は華やかなものではあるが、贔屓の招きが消えていることに一抹の寂しさを感じる。「また」の一語で、作者が永年の歌舞伎ファンであることが分かる。
     
  俳句上達のこつは何と言っても沢山作って人に見て貰うことです。「この句はつまらないのではないだろうか」などと臆することなく、沢山作っていると、自然に五・七・五のリズムが身についてきます。そして人に見て貰うことにより独り善がりになっていないかどうかが分かります。そのような「沢山作って人に見て貰う」場として嵯峨野俳句会を利用していただきたいと思います。(洋)