夕星抄余沢


才野 洋

  令和6年 5月号    
  折紙の竜をどりつつ年新た             千代 博女  
   「をどりつつ」に動きを感じる。勿論実際に踊っているわけではなく、そのように見える折紙であるということだろうが、これから始まる年が躍動的なものであることへの期待が感じられる。仮に今年が辰年でなくても、霊獣「竜」は新年らしいめでたさを感じさせてくれる。  
  降る雪や町家の屋根の寄り合ひて          西川 豊子   
   作者の住むところからは京都西陣の市街地を見下ろすことが出来る。「町家の屋根の寄り合ひて」はそのことを意味しているのであろう。昔ながらの日本家屋の様子を表すと共に、そこに住んでいる人達の絆をも表しているようだ。「降る雪」という季語が、歴史を感じさせると共に、温かな人情も連想させてくれる。  
  背に日差しうけてホームの日向ぼこ         池田 小鈴  
   「駅のホームに立って電車を待つ」という動作は春夏秋冬いつでもあることなのだが、「冬に」「日差しを受けて」という条件が加わると、「ホームの日向ぼこ」に変わる。同じ動作が、環境の変化によって別の意味合いを帯びるという発見がここには在る。日向ぼこだと思うと、電車を待つことも少しは楽しくなるだろう。  
  鳴く声の濁点太き寒鴉               横川  節  
   鴉の鳴き声を「濁声(だみごえ)」と表現することは常套表現であるのだが、この句はそこから更に一歩進めて、「濁声」→「濁点」としたところが、表現の妙。音声を視覚化したことによって、読者の心にこの鴉の声がいっそう強く印象づけられる。漫画の吹き出しを見ているような印象がある。よほど大きくかつ嗄れた声だったのだろう。  
  御神籤の凶をかしこみ初詣             浅見まこと  
   お神籤は誰しも「吉」を引きたいもの。初詣とあれば特にそうである。「凶」が出たものならば、「吉」が出るまで何回でも引く人もいるが、本来は「凶」であるならば、それがご宣託であると納得すべきであろう。この句にはそのような信仰心の深さがある。「かしこみ」に、その信仰心がうかがわれる。  
  満天の星きしきしと底冷えす            中谷 廣平  
   擬音語は常套表現になりやすいので避けるべきだが、使い方によっては印象深い句にすることも可能だ。この句では、本来はものが擦れ合った時の音の表現である「きしきし」を、星の光の形容とした使ったことで、冬の星の冴え冴えとした光を表すのに成功している。  
  鴨一羽デコイとなりて浮かびけり          久保木倫子  
   「デコイ」は鴨猟で囮として使われる木の模型のこと。浮き寝している鴨があたかも木の模型のように見えたというのである。単に「浮き寝鳥」と言うのではなく「デコイ」という比喩を用いたことによって、一層の静寂感が感じられる。「デコイ」であるからには、暫く後には銃声によってその静寂が破られるのだから。  
  幾つもの橋渡り来て明の春             川上 桂子  
   作者の住んでいるところから推せば、岡山の城下町の情景であろうか。「幾つもの橋」に歴史在る街並みが想像できる。作者は初詣に向かうために橋を渡っているのであろうが、「幾つもの橋渡り来て」という表現には、「人生の幾つもの転機」という意味合いも感じられて、元日を詠むに相応しい句となっている。  
  初富士の浮かぶが如く水平線            中島 三治  
   日本中で富士山の見える地点は多いそうだ。一番遠くは和歌山県からも見えるそうで、当然作者の住んでいる千葉県からも気象条件が良ければ見えるのだろう。そしてそれは海の向こう側に見えるのだから、句に詠まれているような情景になるのだろう。言葉の裏には雲一つ無い快晴の空が示されているのであり、お正月らしいめでたい句だ。  
  余命には触れぬ会話や寒椿             山根 征子  
   「余命には触れぬ会話」は省略の効いた表現である。「余命」という言葉を冒頭に置いているということは、当然それを話題にしたのだ。しかしお互いに忖度してそれには触れないでいる。どのような状況かは容易に想像が出来る。「寒椿」の季語が淋しさを際立たせている。  
  待春や農機具みんなよき顔に            栁澤 耕憲  
   中七・下五は農業をしている人ならではの表現であろう。整備も完全に済ませて出番を待っている農機具が、「さあ、早く使ってくれ」とせがんでいるように見えるのは、作者自身の心が投影されているからである。「待春」の季語が効いている。  
  皆去んで七草粥の椀ふたつ             廣田眞理子  
   上五「皆去んで」で読者は突然に孤独感の中へ放り出されるが、中七を読めば、正月に帰省していた子供達が帰ったことだと分かる。さらに下五の「椀ふたつ」で、これからは夫婦の時間が始まることが暗示されている。温かな雰囲気で終わる句である。  
       
       
  令和6年 4月号    
  一人居の灯してよりの寒さかな           中島 勝彦  
   「明かりを点ければ心も落ち着いて寒さの感じ方も和らぐ」というのが普通である。それを「灯してよりの寒さ」と逆説的に言ったことによって読者の心に詩情が立ち上がる。ヒントは「一人居」だ。自分で灯りを点けねばならなかったことが「この家に今自分しか居ない」という意識を喚起して、それが「寒さ」を強めているのだ。  
  磴に来て冬至の影の立ち上がる           梅原 清次  
   冬至は一年で一番日照確度が低い。つまり地に落ちるものの陰が一番長い日であると言うことだ。長い陰であっても地上に落ちている時は、作者はそれ程は意識しなかった。しかし目の前に磴が聳えている所まで来て、磴の面に陰が映る時になって突然にその長さに気付いたのだ。その驚きを表すのに「立ち上がる」は誠に適切だ。  
  躊躇ひつつ冬の桜として咲きぬ           池田 洋子  
   「躊躇ひつつ」の措辞が効果的だ。春の桜と比べてひっそりとした佇まいの冬の桜を巧く表している。と同時に、擬人法を用いたことにより、冬の桜に投影されている作者の気持ちも、さらには読者の気持ちも見えてくる。躊躇いつつも世の中に精一杯生きているというのは、人の普遍的な姿ではないだろうか。  
  太陽のまぶしく沈む初冬かな            石堂 初枝  
   「太陽がまぶしい」と言えば「それは当たり前だ」とか「夏の雰囲気だ」とか言われそうだが、私はこれは冬の情景の描写であると思った。冬は太陽の照りつける角度が低くなるので、午後四時ぐらいともなると、もう太陽は顔のほぼ正面から差すようになる。まさに「まぶしく沈む」のである。  
  一すぢの飛行機雲や蒲団干す            大森 收子  
   蒲団を干すからには好天であることは間違いない。だが問題はその好天をどのように表現するかと言うこと。この句では「一すぢの飛行機雲」という措辞によって、青と白の色の対比が読者の心に強く印象づけられる。他の雲ではなくて飛行機雲というのも、空の広さを表現するするのに相応しい。  
  スーパーのかごの山積み十二月           馬場 久恵  
   十二月は年用意があるから、一年で一番スーパーマーケットが忙しい時期であろう。店内用の買い物籠もすぐに無くなっていくが、店側も心得たもので、すぐにまた補充していくのだろう。「かごの山積み」の裏には、店員の方々の労力が隠されている。  
  授かりし余命しづかに除夜の鐘           秋山 順子  
   「除夜の鐘」の季語が効いている。一年が終わり新しい年が始まる時だからこそ、時間の流れを強く意識するものだ。作者は静かに今までの人生を振り返っている。振り返ってみた結論が「授かりし余命」ということだろう。身の回りへの感謝を忘れない作者の真摯な心がそこにある。  
  枕元母の愛せし寒椿                吉岡 裕世  
   義母である故吉岡杏花さんの臨終の際しての連作の第二句目。「愛せし」と過去形になっているからには、この時点で逝去されていたか、少なくとも意識が無かったのであろう。枕元に大好きな花を生けても、本人は最早それを鑑賞することが出来ない。そのことに一層の悲しみがこもる。  
  老ゆることも希望となりぬ冬至風呂         椎名 陽子  
   老いの俳句は詠まない方が良いと言われている。しかしそれは、老いを詠むとどうしても暗い印象の句になってしまうからであり、老いを詠んでも明るい句であれば読者からの共感は得やすいだろう。この句では「希望となりぬ」に明るさが見える。柚湯に浸って心身共にリフレッシュした証であろう。  
  睦まじくショートケーキのクリスマス        大塚志保子  
   子供がいた頃にはホールのクリスマスケーキを買って切り分けて食べていたのが、子供達が独立してからはホールケーキを買っても食べきれないので、ショートケーキ二つを買って夫婦でクリスマスを祝っているのだろう。ショートケーキであっても「睦まじく」であるところが良い。  
  テーブルに蜜柑のありて二日経つ          矢倉 美和  
   作者の祖母の逝去に際しての連作の後にあるから、この句もその文脈で読んでしまう。食べるつもりでテーブルの上に置いたのだが、祖母の逝去という大事件のために食べられずいて、気付いたら二日経っていたということであろう。もちろん、そのような事情が無かったとしても、蜜柑というありふれた果物の本質がこの句には詠まれている。  
  初雪や棚に絵本のひしめきて            廣岡トモ子  
   「初雪」と「絵本」との間にどのような関係があるのかと問われると、返答に窮してしまうが、とりあえず、両者ともに人の想像力をかき立てるということでは共通しているだろう。絵本が作者から子供へのメッセージであるように、雪も天から人へのメッセージなのだ。  
       
       
  令和6年 3月号  
  鍵あけて入るわが家の寒さかな           名島 靖子
   家に入るのに鍵を開けるのは当たり前だが、「寒さ」という言葉と合わさると、独特な意味合いを持ってくる。自らが鍵を開けるということは、鍵を開けてくれる人が家の中に待っている訳ではないということを連想させる。その事実が「寒さ」と繋がってくるのだろう。鍵を開ける固い金属音までが聞こえてくるようだ。
  火祭を終へしばかりの家並かな           磯部 洋子
   私は火祭を見たことはないが、それでもこの句を読めばその情景が目に浮かんでくる。当日は洛北鞍馬の地がすべて祭の熱気に包まれるという。この句は祭の終わった時点に視点をしぼってそのことを詠んだことが成功している。「祭の熱気」とは一言も言っていないが、「終へしばかり」という言葉で、それを読者に想像させている。
  雲のなき今夜は月と語りをり            川西万智子
   「雲が無い今夜は月をしっかり見た」というなら、当たり前になる。「月に語りかけ」なら意外性はあるが、詩情は少ない。「月と語りをり」だからこそ面白い。もちろん現実には月が言葉をかけてくれる訳ではないが、月と心を通わせればその言葉も聞こえてくるという心こそが、詩情というものであろう。
  谷戸の日を集め暮れ行く苅田道           鈴木 利博
   谷戸という低い土地であればこそ、「日を集め暮れ行く」という表現が納得できる。「苅田」は晩秋の季語。そろそろ日没の時刻も早くなってくる季節だ。山の麓などが既に小暗くなっている時に、広々とした苅田の中を走る道だけがまだ明るさを残している情景が目に見えてくる。
  短日や午後の仕事が走り出す            本多ひさ女
   冬至の頃ともなると午後四時頃にもう空は薄らと暗くなってきて、「もう日暮れなのか」と忙しい気分になる。昼食の休憩を終えてまだ三時間かそこらなのにだ。そのことが分かっているから、冬場には午後の仕事はペースを上げがちになる。「午後の仕事が走り出す」はその意味であろう。「走り出す」が言い得て妙だ。
  達磨忌や草履一足供へたし             青木 謙三
   「隻履西帰(せきりせいき)」という言葉がある。達磨大師が片方の草履を手に持って西方に帰ったという言い伝えに基づく。この伝承が何を意味するか筆者には分からないが、絵にもよく描かれているテーマである。この句はそれを前提として「草履一足を供えたい」としたもの。ちなみに「達磨忌」は旧暦十月五日。
  冬空へ品評会の牛のこゑ              上田 古奈
   さぞかし立派な牛であろうし、また伸び伸びとした啼き声であることも想像できる。「冬空」としか書かれていないが、よく晴れた空であることは間違いないだろう。冬の空であることで、澄み切った空気感もある。農業へのおおらかな讃歌としての一句だ。
  変はりなく故郷の山河柿日和            櫻岡 孝子
   久しぶりに故郷に帰って心安らいでいる作者の姿が見えてくる。変化の早い現代社会にあっては、変わらないものは安らぎを与えてくれる。季語の「柿日和」が効果的だ。単に「秋日和」とするよりも具体性が感じられるので、この「故郷」の様子が読者の心の目に浮かんでくる。
  枝打の谺深山を渡りけり              水科 博光
   「枝打」は、節の無い材木を作るために杉や桧の下枝を切り落とす作業のことで、冬の季語。そうであるから、「枝打」という言葉から植林された山が直截に想像できる。枝打ちする人の姿は見えなくても、その作業の音が冬の冷たい澄んだ空気の中を伝わって来る。「渡りけり」に余韻が感じられる。
  老いて尚学ぶ家事あり今朝の冬           坂井 俊江
   危うく見落としそうになった。一読したときは「学ぶ事あり」と思っていたのだが、よく見れば「学ぶ家事あり」だった。「事」ではなく「家事」だからこそ具体性があり、また「今朝の冬」とも良く合う。朝食の下句であろうか。何年も主婦をしていてもそれに慣れることなく、新しい工夫をしていこうとする作者の意欲が感じられる。
  客待ちの店主定位置毛糸編む            北村 素子
   何を商っているかは分からないが、個人経営の小さな店で客もそれほど来ない店であろう。店番をしている店主は販売促進などに興味も無く、ただストーブの傍で毛糸を編んでいる。昔ながらの光景に心がほっとする。「テンシュテイイチ」の「て」音の繰り返しが耳に心地好い。
  秋日和琴引浜の風の音               城山  実
   琴引浜は京都府京丹後市にある景勝地。砂を踏む音が美しいのでこの名前がある。しかしだからと言って〈秋日和琴引浜の砂の音〉ではつき過ぎになる。砂の音が美しいのは前提として、「風の音」としたことで句に奥行きが出てくる。季節を秋としたことも、背景の静かさを表現するのに一役買っている。
     
     
  令和6年 2月号    
  思ひ出に始まる母と子の夜長             北尾 鈴枝  
   「思い出を語り合いながら夜長」という内容の句ならば、しばしば見られる。この句のポイントは「始まる」の一語にある。「始まる」であるからこそ、この母子の会話のこれからの進展について、読者はいろいろと想像を広げることが出来る。「夜長」であれば、それこそ様々に展開していったことであろう。  
  ふり向けばまうしろに立つ秋の影           橋本 爽見  
   自分の影を見つけてしまった作者の驚きのようなものが感じられる。正面から光が当たっていれば真後ろに影が出来るのは当たり前なのだが、「まうしろ」という言葉には「知らない間に」というニュアンスがある。この雰囲気を出すにはやはり「秋の影」でなければならないだろう。日差しの強い夏ではだめなのだ。  
  川音は闇に吸はれてちちろ虫             清水山女魚  
   「川音」と「ちちろ虫」という音を示す言葉が二つ使われている。音に音を合わせるのは避けた方が良いと言われているが、この句の場合は間に「闇に吸はれて」という言葉が挟まれているので、煩瑣な感じはしない。夜になって川が見えなくなるに従って作者の意識は川音から離れていき、虫の声に心が傾いていったのだ。  
  新藁の香に包まれて百姓家              光畑あや子  
   堅実に農業を営んでいる農家が想像できる。「新藁の香に包まれて」は第一義的には物理的に新藁の香りが辺りに満ちている様子を表しているが、その裏の意味として、農家のこの一年の努力を賞賛する作者の気持ちも含まれているのだろう。これからもこのような風景の残る日本であってほしいものだ。  
  秋の浜声弓なりにとどきけり             桜井 京子  
   「声弓なりに」とあるが、実際の光景としては浜が弓なりであったのだろう。浜が弓なりであるから、遠くに居る人の声がその海岸線に沿って伝わってきたように感じられたということであろう。さびしげな「秋の浜」であればこそ、「声弓なり」という表現にも無理がなく感じられる。  
  朝顔を蒔きて咲かせて再入院             髙橋 浅子  
   「朝顔」は秋の季語だが「朝顔蒔く」は夏の季語だ。それではさてこの句の季節は何時かということだが、秋として解釈すべきだろう。ポイントは下五の「再入院」で、一旦退院して平穏な生活に戻ったのに、また入院することになった無念さがこの句の要なのだから。朝顔を残しての再入院はさぞ無念であったろうと想像する。  
  太郎冠者笑ふ社の秋高し               中村 隆兵  
   「太郎冠者」という言葉があるから、神社での奉納狂言であろう。狂言での笑い方は腹の底から声を出す独特なものでよく響くし、素人でも真似てやってみると気分が爽快になってくる。その笑い声が神社に響き渡っている。「秋高し」の季語がよく似合う。  
  母戻り来よ逆光に散る銀杏              澤田 治子  
   銀杏の落葉はただでさえ明るい色合いのものである。それが逆光の中ともなれば尚更であろう。作者はその明るさを、この世のものではないと感じたに違いない。その気持ちが亡くなったお母様を思い出し、直截に「母戻り来よ」という言葉になって出たのだろう。  
  虫の音とともに講義を配信す             舟木 轍魚  
   作者は大学講師。昨今よくあるように、講義の模様を録画したものをインターネットで配信しているのであろう。自宅で夜に録画したものであろうか。偶然にも録画に虫の音が入ってしまっていた。それを「虫の音とともに……配信す」と表現したところが俳諧である。  
  父母こゆる齢いただき今日の月            望月 郁子  
   日本人にとって月は特別の意味を持つ。かつて松尾芭蕉は〈さまざまの事おもひ出す櫻かな〉と詠んだが、月も又さまざまな事を思い出させる。作者は仲秋の名月を見て、かつて両親と月見をしたことや、両親と過ごした楽しい日々をを思い出したのであろうか。  
  瑠璃色は夜空のかけら臭木の実            奥田 早苗  
   「臭木」は「くさぎ」と読みクマツヅラ科の落葉小高木。茎や葉に悪臭があるのでこの名があるが、その実は美しい青色をしている。その青色を「夜空のかけら」と捉えたところが詩情。夜空の欠片が臭木の実となって地上に残り、それに朝日が差している。  
  消え残るスタートライン秋夕焼            仲野 由美  
   運動会が終わった後の情景であろうか。「消え残る」であるからには殆ど消えているものと思われる。選手たちも皆帰ってしまって人気のない運動場で、消え残っているラインだけが熱戦の余韻を醸し出している。「秋夕焼」の季語の斡旋が見事。  
       
       
  令和6年 1月号    
  たんたんと流るる暮し走馬灯            上達 久子  
   走馬灯を見ていると自分の人生をふと振り返って見るものである。幻のように見える影絵が、もはや取り戻すことの出来ない過去を思い出させるためであろうか。この句の作者はその人生を「たんたんと流るる暮し」と表現した。何度も何度も同じ影絵が目の前に現れる走馬灯には、そのようなイメージもあるだろう。  
  蓑虫の揺れていのちの軽さかな           森本 隆を  
   秋風の中をふらふらと吹かれている蓑虫の姿を見ると、蓑に包まれてはいても寒くないだろうかと心配もしたくなる。その心もとなさはまさに「いのちの軽さかな」と言うべきものであろう。この「いのちの軽さ」は蓑虫を軽んじているのではなく、蓑虫に心を寄せているものとして解釈すべきである。  
  秋風や長椅子一人づつ座る             中田 節子  
   公園での情景であろうか。長椅子なのだから複数名ずつ座ることができるのに、一人ずつ座っている。確かに複数名が座れるとは言っても、知らない人と座るのは抵抗があるから、空いている椅子があれば別の椅子に座るものであろう。複数の人がその場に居ても、その人達の間には交流がない。その淋しさを「秋風」が象徴している。  
  髪きつく束ね秋思を断ちにけり           北尾 美幸  
   思い悩むことがあっても、何か一つの動作をきっかけとしてその思いを断ち切ろうとするのは、誰しもよくあること。髪を束ねる動作をその切っ掛けとしたのは女性ならではであろう。髪を束ねる手の感触、そして頭皮にが受け止める力。その強い皮膚感覚が読者に伝わってくる。  
  肩車の小さき手の捥ぐ林檎かな           須﨑咲久子  
   省略の利いた句。具体的なものとして表されているのは「肩車」「小さき手」「林檎」だけだが、林檎狩りに来た親子連れの楽しげな表情が見えてくる。林檎にまだ手の届かない小さな子を父親が肩車している。やっと手の届いた幼子が楽しそうに林檎を捥いでおり、その子の笑顔を見た親もまた笑顔を見せている。  
  切らさずに沸かして冷ます麦茶かな         西澤 照子  
   動詞が三つ使われているが煩瑣な感じはしない。理由としては一つにはその主語が全て「作者」であること。二つ目には動作の順番に動詞が並べられていること。そしてまた動詞を三つ連ねることによって、却って作者の忙しさが巧みに表現されているということがあるだろう。  
  琅玕を色なき風の抜けゆけり            和田 秀穂  
   「琅玕」は本来は暗緑色の宝石のことであるが、そこから転じて美しい竹を表す言葉としても使われている。この句ではその二つの意味が巧みに使われている。情景としては竹林を秋風が吹き抜けたということだが、「琅玕」が「深緑色」をも表すことを利用して、「色なき風」との色の対比の美しさを醸し出している。  
  たそがれの吐息となりぬさるすべり         板谷つとむ  
   夕日の中に揺れている百日紅を「たそがれの吐息」という美しい言葉で言い表した。このような表現が出来るのは百日紅を措いて無いだろう。暑い夏の夕方に感じるほっとしたような気怠さ、そして百日紅という花の淡い色合い。この句の季語は動かない。  
  モノクロの写真の数多震災忌            渡辺 秀峰  
   毎年九月一日の震災忌になるとマスコミ各社では関東大震災の時の様子の再現する報道が行われる。昔のことであるから写真は当然白黒写真であるが、その写真を見て往事に思いを馳せることが、すなわちこの災害の犠牲になった人達への鎮魂になるのだろうと私は思う。  
  名月の照らす呼吸器母の窓             二見 謙治  
   一連の句を読むと、お母様を亡くされたことをテーマとした連作であると分かる。その中でこの句は最期を看取っているときのものであろう。人工呼吸器をつけたお母様を名月の光が包んでいる。今年の月は特に美しい月であったが故に、描き出されている情景の哀しさも一層深いものとなってくる。  
  掌の中に眠る文鳥秋思ふと             小倉 和子  
   優しさの溢れる一句である。掌の中で安心して眠っている文鳥をやさしく見守っている作者の姿が見えてくる。作者の心にはどのような秋思が浮かんだのだろうか。必ずしも文鳥に関するものばかりではないだろう。いとけないものを見ているときには、色々と想像は広がるものだから。  
  花薄しなやかに揺れ夢二の忌            田中土岐雄  
   竹久夢二の手による独特な美人画と花芒を合わせたのが面白い。上五・中七の風景描写から下五の夢二忌へと場面が展開することも読者の詩的情感を沸き立たせる。また「夢二」と合わせるために、「薄」や「穂薄」ではなく「花薄」としたことも工夫が効いている。  
       
  令和5年 12月号    
  武蔵野にふくらむ入日橋涼み            中野 東音  
   夕日を受けて辺り一帯も赤くなったことを、「ふくらむ入日」という言葉で表現したのだろうが、実に独創的でありまた説得的だ。ふくらんだことで色が薄くなったことも想像されて、昼の暑さも落ち着いてきたことが感じられる。まさに「橋涼み」の気分が十分に表されている。  
  大槻の影濃く伸びて地蔵盆             町田 珠子  
   地蔵盆に集った子供達を槻の木の影が優しく包んでいる。影の中に居れば子供達も暑くはなく、色々な行事を楽しく経験することが出来るであろう。樹齢を経たこの槻の大木があたかも子供達を守っているかのようだ。間違いなくこの木はこの地域の象徴として大切にされている木であろう。  
  走馬灯みんな回つてみんな影            亀山利里子  
   走馬灯なのだから回っているのは当たり前だし影であるのも当たり前だ。しかし「みんな回つてみんな影」と言われると、「人生は全て転変する幻」という人生観がふと心をよぎる。当たり前のことに別の意味合いを持たせるというのもまた、俳句の表現方法の一つだろう。  
  りろりらとリュートの語る秋初め          西田 幸江  
   「リュート」は中世ヨーロッパで盛んに使われた弦楽器のこと。その音色を、「りろりろとりゅーとのかたる」とラ行の音を重ねて表現したところがこの句の眼目。実際にこの楽器の音を聞いたことのない人でも、言葉のこのリズムによって納得してしまう。擬音語を使う場合は、慣用的な表現に頼ることなく、このように効果を考えて用いたい。  
  あと戻り出来ぬ人生蝸牛              山田 正弘  
   上五・中七では人生に対する作者の感慨が述べられている。それを象徴とする者として「蝸牛」が使われている。きっと作者の人生も蝸牛のように、決して華やかではないが着実なものだったのだろう。一歩一歩歩む蝸牛を見て、作者は改めて自分の人生を肯定したことだろう。  
  瑠璃色に朝風染めて螢草              太田 朋子  
   「露草が瑠璃色だ」というのはよくある句であるが、この句はそれを前提として、「朝の風を染めた」としたところに工夫がある。露草はそれだけで爽やかな印象のある花だが、「朝風」という言葉と合わせられて、いっそう爽やかな印象が現れた。  
  状差しに古き絵はがき秋めけり           谷中 こ夏  
   「絵はがき」からは旅が連想されるが、「古き」と言うからにはつい最近届いた物ではなく、何年も挿したままになっている絵葉書であろう。しかし「秋めく」という季語と合わさると、一つの季節の終わったことの象徴であるようにも感じられる。  
  踊子の鳴子は雨を撥ね返し             田中 美樹  
   威勢の良い句である。雨天を押して開催された踊りの様子を描写したものであろうが、雨を撥ね返しているのは必ずしも「鳴子」ばかりではなく、踊り子の体もそうであろうし、何よりも雨に負けまいとする踊り子の意志がそうであろう。そこを、「鳴子」に焦点を絞ったところが、この句の成功の理由である。  
  川霧の甲州街道夜明け前              中山 克彦  
   甲州街道は江戸の日本橋から日野や八王子を通って最終的には甲斐の国甲府に至る街道。名前から想像できるように山道が多いので、川霧が立つところもあるのだろう。「夜明け前」の語が効果的である。夜明け前に宿場を発っていた江戸時代の旅人が彷彿と思い浮かぶ。  
  兜虫そろりと摑む小さき手             石原 盛美  
   生まれて初めて兜虫を掴む幼い子であろう。あの大きな体がもぞもぞと脚を動かしているのを見ると、「噛んだり刺したりしないから大丈夫」と大人から言われても、やはり気が引けてしまうものだ。手に焦点を絞りながらも、この子の表情まで見えてくる面白い句だ。  
  くいくいと乳飲む孫や青田風            藤沢 道子  
   もし上五が「元気よく」だったら平凡な句になったことであろう。「くいくいと」よ擬態語を使ったことで、赤子が乳を飲む様子が具体的に読者に伝わって来る。また「ぐいぐい」ではないことで、赤子の小ささも伝わって来る。擬態語が成功している句だ。  
  竜田姫裾捌きつつ下山かな             野島 玉惠  
   「竜田姫」は平城京の西にある竜田山を、秋を司る女神として人格化したもの。この句ではその竜田姫を具体的に「裾捌きつつ」と表現したところが面白い。「下山」は紅葉が山の頂から徐々に麓へと下りてくることであろうが、「裾捌きつつ」という言葉と相俟って華麗な印象がある。  
  大花火次は此処よと昇り笛             二見 歌蓮  
   「昇り笛」は作者の造語であろうか。確かに打ち上げ花火が上がるときには「ヒュー」という音が聞こえる。広い場所での花火大会では、次に開く花火の場所を知るには、この音が役に立つ。「次は此処よと」と擬人法を使ったことに、花火大会を楽しむ作者の気持ちが表れている。  
       
       
  令和5年 11月号  
  夕涼やヴェニスの路地の立飲み屋          中山 仙命
   一読、ヴェニスにも立飲み屋があるのかと楽しい気分になった。でもヴェニスの立飲み屋は恐らくは日本の立飲み屋とは違うだろうと考えてみたりもしてみる。水の都の、それも歴史ある街での立ち飲みだ。想像するだけで涼しげな気分になってくる
  紫蘇もんで生命線の染まりけり           山下 千代
   紫蘇を揉んだ手が紫に染まった。おそらくは生命線だけでなく頭脳線や感情線も染まったのであろうが、生命線に注目したことで俳句になった。「生命線」という言葉を用いることで、紫蘇の持っている生命力を頂くという感謝の気持ちが表現されるからだ。そのことはこの句の中七を「我が掌の」と変えてみれば分かる。
  蟬声を命惜しめと聴きにけり            西川 豊子
   地上に出れば七日ほどしか生きられないと言われている蝉だからこそ、その声を愛おしむ心も生まれてくるものだ。しかし作者はその蝉の声が自分に語りかけていると感じたのであろう。蝉も人も、悠久の地球の歴史からすれば一瞬の存在。命の大切さは変わらない。
  大き影ゆらし黒揚羽の無音             服部 史子
   揚羽蝶は、あれだけ大きな羽であるのに羽音がしないのが不思議だ。その驚きが素直に表現されている。「しかしそれは揚羽蝶全般に言えること。『黒揚羽』でなくても良いのではないか」と反論があるかもしれないが、「無音」という不気味さを表す言葉と合わせるのにはやはり「黒揚羽」でなくてはならないだろう。
  足裏は白くて綺麗晩夏光              横川  節
   季語「晩夏光」が効いている。これによって句の言葉の上では「足裏は白くて綺麗」としか言っていないが、その裏の意味として「体の他の部分はしっかり日焼けしている」ということが分かるからだ。日焼けを言わずに、対照的に輝くほど白い足裏を詠んだところが面白い。
  梅雨あける山喝采の雲放ち             中畑  恵
   「喝采の雲放ち」に、梅雨が明けたことに対する作者の喜びが余すこと無く表れている。本当は作者の喜びの気持ちなのだが、それを「山が喝采の雲を放っている」と山に仮託して詠んだところが詩である。この雲は間違いなく、白く輝く雲であろう。
  炎昼や道に貼り付く家の影              山本 信儀
   「影」なのだから厚みが無いのは当然なのだが「貼り付く」とあると更に立体感を欠いた映像が頭に思い浮かぶ。それだけ日差しが強く、あたかも日の光に圧力があって、影を道に押さえつけているような感がある。通りを歩く人も無い「炎昼」に相応しい表現であろう。
  笹のみの星合の夜や老夫婦             武  義弘
   「笹のみ」というところが「老夫婦」と良く合っている。願い事を書いた短冊を吊すことなく、笹だけを飾っているということであろう。今更願うこともなく、ただ星に祈りを捧げている作者の姿がそこにある。あるいは、それこそが本来の七夕の姿かも知れないが。
  敗者への敬意忘れず夏椿              寺崎 智子
   季語が「夏椿」だからスポーツなどの屋外での競技ではないだろう。おそらく将棋や囲碁でろうと思われる。さて、どんな競技でもそうだが選手はまず対戦相手への敬意を保つことが教えられる。それこそが競技をすることの意義であろう。夏椿の白さが清々しい。
  遠く病む息子はいかに百日紅            椎名 陽子
   まず草に咲く花ではなく木に咲く花であることで距離感が表現され、句にある「遠く」の言葉と合っている。また木のに咲く花であっても、夾竹桃のように色の鮮やかな花でもなく、合歓の花のように穏やかな印象の花でもないことが「病む」を暗示している。この句の「百日紅」の季語は動かない。
  吊忍つるやたもとに風のきて            髙橋 賀代
   吊忍を軒に掛けた。当然手は上に向くわけで、服の袖や袂には余裕が出来、そこに風が通って来たのであろう。吊忍は見ることによって涼しさを感じる設えであるが、吊るという動作にも涼しさを感じることが出来るのが、この句から分かる。緑の多い、落ち着いた雰囲気の旧家が詠む者の心にうかんでくる。
  サングラスかけて深海魚となりぬ          築山ふみ女
   比喩が成功するためには二つ以上の点で似ていることが必要であると私は思う。掲句の場合は、「普通と違う外見である」という点と「暗い」という点で、「サングラスを掛けること」と「深海魚」は似ているので、成功した比喩と言える。また、「深海魚となりぬ」と言い切っている点もこの句の成功の理由であろう。
     
  令和5年 10月号  
  路地奥へ連なり咲くや雪の下            北村勢津子
   京都の町屋の続く路地を思い出させるような一句。京都には細い路地が多くあり、その石畳の端にはひっそりと雪の下が並んでいることがある。小さな雪の下の花をもってきたことで、路地の狭さや暗さ、そしてそれにもかかわらず趣のあることなどが読者の頭に思い浮かぶ。
  六月の富士海の上雲の中              梅原 清次
   六月七日の湘南句会江の島吟行の際の作と記憶している。この日は天気予報に反しての好天で、海の向こうに微かに富士山が見えた。「海の上雲の中」はその時に見えた富士の様子を正確に描写していると同時に、五音の繰り返しが心地よいリズムを作っている。
  栗の花施設入所を決めし友             𠮷田 鈴子
   近頃の高齢化社会では、人によっては施設入所を決めねばならないこともあるだろう。安全のためにはやむを得ないとはいえ、住み慣れた家や地域社会を離れることは辛いことだろう。掲句の中七・下五は客観的な描写に徹しているが、その裏には色々な事情が感じられる。栗の花はある意味、淋しさを感じさせる花だ。
  水無月の有りと老舗や梅雨晴間           坂戸 啓子
   この「水無月」は月の名前ではなく和菓子のことだろう。京都では六月にこの菓子を食べ、その年の後半の無病息災を祈る。「梅雨晴間」の季語により、無病息災を祈る気持ちが素直に伝わって来る。東京の人にもこの菓子を取り上げて貰ったことが、私としては嬉しい。
  草を取る庭に奥行もどりけり            塩出  翠
   「奥行もどりけり」という言葉が端的にこの庭の様子を表している。草刈りをする前は茂った草によって見通しが悪くなっていたのだろう。それが草を取ることによって見通しが良くなり、庭の様様な花やしつらいも見えるようになった。「もどりけり」の一語に、庭を愛する作者の心が見える。
  それぞれに生きて集ひし盆踊            坪井たまき
   今時の盆踊の様子がよく表現されている。普段は生まれた地を離れて都会で生活している人達が、盂蘭盆会の時には故郷に集まってくる。まさに「それぞれに生きて集ひし」である。集った者のなかには或いは、なくなった人の魂も居るのかも知れない。
  いにしへの薫風流る法隆寺             中森 敏子
   上五・中七は、作者が法隆寺を訪れた際に受けた風を「ああ、いにしえの人達もこの風を受けたのだなあ」という感慨を持ったということだろう。上五・中七の美しい言葉を、下五の「法隆寺」という重みのある言葉が受け止めたことによって、句が安定した。  
  馬籠宿妻籠宿へと風薫る              天野  苺
   「馬籠」「妻籠」ともに中山道にある宿場町でその距離は八キロメートルほど。徒歩で通うことの出来る距離であるとか。そうであればこそ二つを並べることに違和感はない。信濃、飛騨の山の中を通ってきた風がそれぞれの宿場町を訪れる。或いは片方を訪れた風が他方へも訪れているのかも知れない。
  銭湯や行きも帰りも夏の月             奥本伊都子
   「銭湯や」という上五からして心地よい気分が読者の心の中に広がる。銭湯に向かう楽しさと、銭湯で汗を流した後の心地よさを「夏の月」という季語で表した。「行きも帰りも」という簡明な表現がこの場合は気持ちよさを表すのに巧みに使われている。表現は簡単だが余情は深い。
  生ハムをはんなり羽織るメロンかな         櫻岡 孝子
   要はオードブルなどでよく見られる、メロンを生ハムで巻いた料理のことなのだが、「はんなり羽織る」と擬人化したところに俳味がある。メロンという果物の品格からすれば、「はんなり羽織る」という表現にも納得がいく。メロンの緑と生ハムの薄い赤との色の対比も美しい。
  ひらひらと明るさを撒く梅雨の蝶          井上美代子
   梅雨時の薄暗い空の中を鮮やかな色の蝶が飛んでいるのであろう。場が暗いだけに鮮やかさが一際印象に残る。一般的には蝶を詠むのに「ひらひら」はつき過ぎであるが、この句の場合は「ひらひら」は文法上「明るさを撒く」に掛かっているので、つき過ぎの感じはない。
  新しき鉛筆削る梅雨籠               坂井 俊江
   日常の一齣が巧みに俳句に仕上げられている。絵画であろうか文芸であろうか、雨で外に出られないからこそ屋内での活動に励んでいる作者の姿が見えてくる。また閉ざされた部屋の中で、鉛筆を削る木の香も感じられる。「新しき鉛筆」だけにその香も一際であろう。
  我が家より発ちし一羽か燕の子           播磨 京子
   燕は人家の軒に巣を作るので、その家の人にとっては燕の子は我が子のようにかわいらしく思える。そして巣立ってしまえば一抹の寂しさも感じるものである。その愛着感を掲句は巧みに表現した。飛び交っている燕を見て「その内の一羽は我が家の軒で育った子であろう」と。
     
     
  令和5年 9月号  
  日を水のごとくに湛へ柿若葉            橋本 爽見
   殊に明るく見える柿若葉ならではの表現である。柿若葉に照り返す日差しの明るさが読者の目に見えてくる。「湛へ」という言葉が見事で、ありあまる光の乱反射が巧みに表現されている。単なる柿若葉の描写に留まらず、初夏の生命力が余すところなく表現された作品である。
  春雨やいづれ引かれる庭の草            𠮷本 海男
  命が再び活発に動き出す春を迎え庭にも雑草が生えてきた。それを育てるように雨が降っている。夏になればこの草も邪魔になるので抜かなければならないが、今のところはかわいらしく見えるので、このままにしておこうか。そのような情景であろう。「春雨」の季語が優しく響く。
  若楓関守石をぽんと置く              相良 研二
   「関守石」は、日本庭園などに「立ち入り禁止」の標識として置かれている、紐を結びつけた握り拳大の石のこと。まさに「ぽんと」置かれているだけで、人の動きを止めてしまうある意味不思議な存在である。上に見える明るい若楓と、下に無造作にある関守石との対比が面白い。
  百姓のまねして余生茄子を植う           吉瀬 秀子
   「百姓のまねして」という表現に魅力を感じる。「専門の農業従事者のように上手には出来ないが」という謙遜が感じられるが、同時に丁寧に仕事をしている作者の姿も見えてくる。それは植えているのが、千に一つの仇も無いと言われる「茄子」であることから分かる。
  藤棚へ試運転なり車椅子              桜井 京子
   作者自身が車椅子に乗っているとは思えないので、誰かの乗る車椅子を押している情景であろう。「試運転」という軽快な言葉によって、車椅子に乗る人の容態もそれほど深刻なものでないことが想像される。「藤棚」というところも、病人にとっては優しい散策先だ。
  降る雨を背負ふ憂ひや牡丹散る           田中 君江
   要は「雨に牡丹が散っている」ということだが、それを詩的に表現すればこのようになる。「降る雨を背負ふ憂ひ」は作者の気持ちを牡丹に投影したものだろうが、言い得て妙である。「憂ひ」のような感情を直接表す言葉は俳句では避けるべきだとされているが、この句の場合は「牡丹の憂ひ」という意外性によりその欠点が回避されている。
  グランドの砂の白きも夏めける           泉  葵堂
   「白き」は砂自体の白さもあるだろうが、むしろ砂に照り返している日差しの強さを表現するものであろう。砂が光っている場所が、多くの若者がスポーツをする「グランド」であるというのも、読者の想像を膨らませる。これから繰り広げられるスポーツの試合も又、夏らしいのだ。
  入院の子の髪を結ふ聖五月                     中島 文夫
   「五月」は「聖五月」とも呼ばれるが、それはキリスト教において五月が聖母マリアの月とされているからである。そうであればこそ、「聖五月」という言葉を使うときは、そのことが連想される内容を合わせるべきである。掲句では、病む子を労る親の愛情が感じられ、まさに「聖母マリアの月」に相応しい。
  大声で泣く児の眩しこどもの日            川上 桂子
   「こどもの日」は子供の健やかな成長を願う日であるが、上五・中七にそれを思う作者の心が遺憾なく表現されている。子供が大声で泣くのは心が健やかに成長しているからであり、そうであればこそ、子供が泣く姿は「眩しい」のである。
  鯉のぼり空を見上げて風を待つ            藤井 早苗
   鯉幟が空を見上げていると言うことは、要するにだらりと垂直方向に垂れ下がっていると言うことだ。だからこそ「風を待つ」が意味を持つ。しかし「空を見上げ」という擬人法により、あたかも鯉幟が天候の変化を期待しているようにも思われる。面白い句だ。
  麦秋の入日をバスの横切れり             水科 博光
   遠景にある夕陽の赤と、中景にある麦畑の黄色との色の対比が美しい。その広い景色の中で一台のバスが点のように小さく見え、そのことにより景色がいっそう広く感じられる。一枚の風景画のような句だ。このバスはきっと、ゆっくりと画面の中をよぎっていったことだろう。
  米粒が星になる朝花南天               矢倉 美和
   上五・中七を読んだ時点では何のことか分からないが、下五を読んではっとする。米粒のように小さな南天の花の蕾が、ある朝ぱっと星のように花開いたということだ。「南天の花が咲いた」という些細なことを、このように想像力豊かに詠んだのは、やはり作者の感性であろう。
  宇治川の流れにのりて春のゆく            松本 孝子
   宇治川の上流は瀬田川と呼ばれている。つまり、琵琶湖の水を大阪湾にまで流す唯一の水路であり、それ故に水量が多い。そしてその水量の多さの故に多くの歴史の舞台になってきた。そうであればこそ「宇治川の流れにのりて」という言葉には説得力がある。この言葉は動かない。
     
     
  令和5年 8月号  
  大文字背に藤の花垂れて              磯部 洋子
   左京区の大文字山の麓には、画家橋本関雪のアトリエであった「白砂村荘」がある。そこでの吟行句。「大」という文字の放射状の形に対する、藤の花房の垂直の平行線。そして山の緑に対する藤の花の紫。形状と色彩という二種類の対比が面白い句である。なお、「背」はこの場合「そびら」と読む。
  亀鳴くや親より永く生きてをり           小野田紀久子
   若い頃は病気がちであったいう作者の境涯を知っているが故に、句に詠まれた気持ち一層深く心に迫ってくる。いつの間にか親よりも(それも、元気であった親よりも)永く生きてきた。その驚きが「亀鳴く」という季語に表れている。もちろん、そのような事情を知らなくても、この句は人が一般に抱く感慨であろう。
  春風や湖の芯より波生まる             中畑  耕
   「湖の芯より波生まる」という表現に魅力を感じる。もちろん科学的に言えば、湖の芯から波が生まれるということはない。波は風によって生まれるのだから、湖全体で波が生まれているのだ。しかし「湖の芯より」と言うことにより、「人があずかり知らない世界から」という印象が生まれる。その「知らない世界から」春はやってくるのだ。
  投票をすませ四月の句座につく           梅原 惠子
   令和五年四月にはいわゆる統一地方選挙があった。まさに統一地方選挙は四年に一度の春の風物詩と言っても良いであろう。しかしそのような事情が無かったとしても、この句には「一つの区切りを済ませた」という作者の気持ちが感じられる。「四月」という季語が活きているのだ。
  葱ばうずこつんこつんと吹かれけり         秋山 満子
   「こつんこつん」という擬態語が、葱坊主という植物に対してぴったりと合っている。あの大きさ、そしてあの形状のものが動いていると、本当に何やら音が聞こえそうにさえ思える。「こつんこつん」というゆったりとしたリズムも晩春を感じさせる。
  桜しべ降るや千回目の素振り            中村 文香
   桜蘂が際限なく降っている中での野球部員の(あるいは剣道部員であろうか)直向きな素振りの練習。その直向きさが読者に感銘を与える。「千回目」という表現にも工夫が感じられる。永く続いている素振りの、その中でも千回目の一振りに注目したことが、俳句らしさを際立たせている。
  新しき口紅のいろ風光る              柳  爽恵
   令和五年の作であると思えば、コロナ禍が収束して人々がマスクを外しだしたこととも思える。しかし俳句としてこの句が優れているのは、そのような事情を外しても面白いと言うことだ。新しい口紅を付けたことによる気分の高揚感が、「風光る」という季語で巧みに象徴されている。あるいは口紅の色も光っていたのであろうか。
  銅板の社の屋根や八重桜              小國 裕美
   「銅板の社」ということで、由緒ある神社の社殿が想像される。その神社の格を表すのに「八重桜」という季語が巧く使われている。「やしろ」「やね」「やえざくら」という「や」の音の繰り返しも、この句に心地よいリズムを与えている。
  国訛り時時出づる蓬餅               田中 節子
   「蓬餅」の季語は動かない。庶民性と風土性を表現するのに「蓬餅」以上に相応しいものはないであろうから。同郷の知人と、蓬餅を食べながら話しているとついつい国訛りが出てきてしまう。そのような和やかな情景が巧く詠まれている。
  花冷えや白衣の裾の翻り              渡辺 秀峰
   「白衣」という言葉が直截に「医療関係者」を連想させ、それが読者の心に緊迫感を引き起こすので、「花冷え」という言葉が効果的に働いている。「裾の翻り」とはどういう状況であろうか。あるいは病室に急いで走っているのであろうか。あるいは、何かがあって急に振り返ったのであろうか。
  おだやかな野路や又兵衛桜まで           鈴木とみ子
   又兵衛桜は奈良県宇陀市にある樹齢三百年と言われている枝垂れ桜のこと。桜も美しいが、周辺には昔の日本の風景が残っており、歩いて又兵衛桜まで向かうこと自体が心を和ませる格好の観光となっている。「おだやかな」という措辞が、うららかな春の陽気を感じさせる。
  千年の深き香りや藤の花              山奥由美子
   作者の住所から想像すると、京都のどこか由緒ある神社仏閣での風景であろう。「千年の深き香り」は必ずしも藤の樹齢を表すのではなく、「平安時代から続いている建物に植えられている」という意味であろう。藤という花には、それだけの品格が感じられるものだ。
     
   
  令和5年 7月号  
  春愁の町角いくつ曲がりしや             吉岡 杏花
   「町角を曲がる」というありふれた事柄でも合わせる季語によって詩になるということを教えられた。「いくつ」という言葉が効果的に使われている。道に迷っているイメージが人生に迷っているイメージへと繋がり、それが「春愁」へと繋がっていくのだ。
  黒髪をゴムで束ねて卒業す                       中村 優江
   人の体の一部分の動きが表現されているだけだが、そこから真面目な女学生の姿が見えてくる。それだけでなくこの女学生の将来へ向けての決意を秘めた表情もうかがえる。「髪を束ねる」という動作が仕事に入る前に典型的に行われる行為であること、そして「卒業」という季語が、そのようなイメージを想起させるのだろう。
  亀鳴くや時折止まる大時計              町田 珠子
   動物学的には実際に亀が鳴くわけではないので、「亀鳴く」は情緒的な季語である。幻想的な季語であると言っても良い。そうであればこそ、「時折止まる大時計」という言葉にも納得がいく。時間の流れが揺らいでいるような感覚。それは春という季節にこそふさわしい。
  しゃぼん玉飛べば昭和の景色かな            益田 富治
   シャボン玉は代表的な子供の遊びの一つである。そうであればこそ、たとえ自分がそれで遊んでいなくても、シャボン玉が飛んでいるのを見るだけで童心に帰る心地がするものである。この句の「昭和の景色」もそのような意味で解釈すべきであろう。
  師亡きあと日のたちやすし桜散る            松井 朱實
   時間の経つ速さは何時も感じることであるが、大切な人を失った後では尚更だ。しばらく何も考えられずにいて、ふと気付いたときに「こんなに時間が経ったのか」と思うものである。この句では、今年も又桜の季節がやって来たということが、作者の記憶の扉を開いたのであろう。「桜散る」であることが悲しみを誘う。
  ここからは神の域なり梅真白              森田 真弓
   「神の域」は境内に結界として一般人の立ち入りを禁じている区域のことであろう。その清浄な静けさを表すのに「真白」という言葉はまことに相応しい。「梅」という早春の花であることも、背筋ののびるような感覚を読むものに与えている。
  紙風船言へぬ言葉を吹き入れて             中谷 廣平
   紙風船を膨らませる息を「言へぬ言葉を」と表現したところに、私小説のような風情を感じる。心の中のわだかまりが、そのまま紙風船に溜まっていっているような視覚的な効果も面白い句だ。自分の心を常に客観的に見ている作者なのだろう。
  ハンガーの制服見つめ卒業子              寺崎 智子
   三年間世話になったが、明日からはもう着ることはない制服。それを丁寧にハンガーに掛けて見詰めている子供の姿が連想される。服に対する子供の感謝の気持ちが感じられるが、この子が見ているものは必ずしも服だけはなく、三年間の思い出もあるのだろう。
  花の雲碧き甍は武道館                 太田 鈴子
   「武道館」という固有名詞が活きている。言うまでもなく「日本武道館」のことであろうが、これにより皇居お堀端の桜の姿が連想される。桜の淡い紅色と武道館の屋根の青色との色の対比も美しい。
  廃屋に光ふたたび花ミモザ               武義 弘
   住む人のいなくなり、音も聞こえない家。それでも庭にある植物は巡る季節を忘れずに花を咲かせるのだが、それを「廃屋に光ふたたび」と表現したことにより、「いずれまた人が住むだろう」という作者の希望が感じられる。高く明るいミモザの花ならではである。「花ミモザ」の季語は動かない。
  掌に縷縷とささめくひひなかな             今泉 藤子
   「縷縷」は細々と続いる様子を表し、「ささめく」は「ささやく」の意味。作者は掌に載せた雛人形の話を聞いている。それは作者の心の耳に聞こえてくる声であろう。「縷縷」という言葉が効果的。漢字で書かれていることにより、この雛人形の風格が感じられる。
  春風や三年ぶりに紅を買ふ               龍川游楽蝶
   コロナ禍もようやく終息に近づき、マスクをしないでも良い生活が始まった。「三年ぶりに紅を買ふ」にはそのような事情が背景にある表現であろう。しかしコロナ禍が忘れられたとしても、何らかの事情で三年ぶりになったのだろうとは想像できる。「春風」の季語が、困難から解放された自由な心持ちを象徴している。
  蒲公英のぎゆうぎゆう詰めや休耕地           栁澤 耕憲
   たんぽぽが隙間もなく咲いているのだろうが、それを「ぎゆうぎゆう詰め」と表現したところがなんとも楽しい。擬人化されたたんぽぽが「押すな押すな」と言い合っているようだ。「休耕地」という言葉は淋しさを感じさせるが、上五・中七の表現によってそれが反転されているところが面白い。
     
     
  令和5年 6月号  
  早春の日差しをすくふオールかな                  中島勝彦
   オールが掬っているのはもちろん池の水であり、その水が日差しに光っているのであるが、端的に「日差しをすくふ」と言ったことで、早春の空気感が見事に表現されている。暗い冬が終わって明るい季節が訪れたことが、感覚として伝わって来る。「すくふ」と平仮名の表記も、季節感の柔らかさを表すのに適切である。
  大試験終へて遠山見つめる子             竹内久子
   試験を終えた子の心理が巧みに表現されている。試験勉強から解放された安堵が一方にあり、そして他方には合否がまだ分からない不安感がある。遠くを見つめるという行為には、そのような解放感と、未来に思いを馳せる気持ちとが象徴されている。
  菜の花に巨船ゆつたり浮き沈み                     田中京子
   近景の菜の花と、そして遠景として沖をゆったりと進んでいく巨船とを対比して、奥行きの深い叙景詩となっている。「巨船ゆつたり浮き沈む」と言っても実際に船が浮沈を繰り返しているのではなく、近景の菜の花が揺れているのでそのように見えているということであろう。うららかな春の一日が思われる。
  うちの子になる運命の子猫かな                     大野布美子
   ある意味「厚かましい」言い回しである。客観的に見れば「作者がこの子猫を飼いたがっている」ということであろうが、それを「うちの子になる運命」と、あたかも天の導きであるかのように表現したところが俳諧である。もちろん作者自身その大袈裟さは分かってのことであろう。
  シャンシャンを見送る人や春の雪                   伯耆惟之
   「シャンシャン」は上野動物園のパンダのこと。中国との約束によって、中国に返されることになったが、その別れを惜しむ気持ちが「春の雪」という季語に巧みに表現されている。降っては直ぐ消えていく春の雪は、儚さを表現するのに適切な季語。そういえばシャンシャンが帰る日にも実際に雪が降っていたような。
  源平の戦場洗ふ春の潮                 皆見一耕
   一読、壇ノ浦を思い出した。壇ノ浦の決戦があったのが旧暦三月二十四日だからだ。しかしそうでなくても「春の潮」には、かつて凄惨の戦いがあった場所を慰霊する思いが込められていて、この情景に合わせるのに適切な季語と言えるだろう。そしてそうであれば「戦場」は「せんじょう」ではなく「いくさば」と読むのが適切であろう。
  春の闇おこぼの音の遠ざかり                        中村隆兵
   「おこぼ」は「ぽっくり」とも呼ばれる、舞妓さんの履き物のこと。履いて歩くと独特な音が響く。祇園のあたりの情景であろうか。夜闇の中で舞妓の姿は見えないが、おこぼの音だけは聞こえている。その音も遠ざかっていき、一抹の寂しさが心に生まれる。まさに春でなければならない情景であろう。
  一礼をして除雪車を見送りぬ                        新庄泰子
   この冬も雪の災害の話をしばしば聞いた。この句の作者の住む地方も、京都市内とは言え山間部であり雪の被害を被ったことであろう。辛い思いをした後だからこそ、除雪車の有り難さは一入であったろう。「一礼をして」には、そのようなさりげない感謝の気持ちが感じられる。
  ぼちぼちと遺品の整理二月尽                        久保木倫子
   一句前の句と合わせて鑑賞すると、この「遺品」はお母様の遺品のことであると想像される。亡くなられてから暫くの間はただ呆然とするばかりだったのが、そろそろ遺品整理もしなければならないと思ったのだろう。「何月尽」という言葉は濫用すべきではないが、この句の場合は期間の経過を示すものとして巧みに使われている。
  ドレープの襟に十字架風光る                        澤田治子
   「ドレープ」は「柔らかな襞」のことで女性の服にしばしば使われる。「襞」と言わずに「ドレープ」としたこと、及び「十字架」という言葉から、そこはかとない異国情緒が感じられる。「風光る」という季語に新たな趣を見つけた句である。
  点滴のひとつぶづつの余寒かな                   東山美智子
   「ひとつぶづつ」と全てを仮名表記にしたことで、いかにも点滴の一滴ずつが時間をかけて落ちてきている様子が感じられる。点滴が終わるまでの長い時間を辛抱強く待っている作者の姿が見えてくる。それを受ける下五の「余寒」には作者の不安感が象徴されている。
  割らぬやう撫づる児の指薄氷                        二見謙治
   子どもは何にでも好奇心を持って接する。通学(通園?)の途次に見つけた薄氷に対しても、その感触を確かめたくて触っているのであろう。しかしそれでもその薄さから割れ易いことは想像できるので、そっと触っている。子どもの指に注目したところが、句の成功の理由であろう。
     
  令和5年 5月号  
  みちのくに不老不死の湯雁供養                    久留宮 怜
    雁は秋に北から渡ってくる時に小枝を足に掴んできて、疲れたらそれを海に浮かべて休むという。冬の間に日本で死んでしまった雁の数だけ春の浜辺に小枝が残されるという、あくまで伝説に拠った季語が「雁供養」だが、作者は「みちのく」「不老不死の湯」という言葉と合わせて巧みに一句にされた。こういう季語が使われることがもっとあっても良いと思う。
  善き顔と夢を持ち寄る初句会                      島本 方城
    一年初めての句会は、年間十二回ある月例句会の単なる一回というだけでなく、これから一年の幸をお互いに祈念し合うという意味もある。「善き顔と夢」を「持ち寄る」という表現は、「初句会」という言葉の本質とも言うべきであろう。
  実朝の札は取りたき歌留多かな                    中山 仙命
   百人一首での源実朝の歌は〈世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも〉。社会的弱者の視線で「世の中は平和であってほしいものだ」と詠んだもの。その札を取りたいということは、作者の心にも平和を願う気持ちがあると言うことだろう。世の中の動きが騒がしい今日であればこその句である。
  見るだけの畑となりて初日さす                    山下 千代
   農業に励んでおられたが、もはや自分で耕すこともなくなってしまった畑であろう。作者の感じている寂しさが「見るだけの」という言葉に表れている。もしこれに寂しい感じの季語を合わせてしまえば、救いがなくなってしまう。「初日」を合わせたことによって「それでも作物は育つ」という希望へと昇華されている。
  痩せてなほ心和ます雪だるま                      田中 睦美
    「痩せてなほ」は、溶けかかっている雪だるまという意味であろうが、それでもなお、おどけた表情が見る者の心を和ませている。それだけに一歩離れて見れば一層せつない。もう少し時間が経てば完全に崩れ落ちてしまうのであろう。そこまでがこの句には暗示されている。
  蒼天へ透く臘梅の香りけり                        須﨑咲久子
   空の青と臘梅の黄色。色の対比も美しいが、この句の主役は何と言っても、臘梅の透けるような花びらと、香という目には見えないものだ。その透明感に、読んでいて心洗われる気分がする。「青空」ではなく「蒼天」という言葉も、この透明感に寄与している。
  冬の蠅無用の艶を持ち歩く                        中畑 恵
   確かに蠅の体は光る殻に包まれている。それは季節を問わない。しかし虫の少ない冬にはそれは「無用の艶」であるというのだ。「艶」「持ち歩く」という言葉からは、単に蠅のことではなく、人間の世界のことも連想させる。「写生」というのは物を単に見ることでなく、そこから想像を膨らませていくことだと、この句は教えてくれる。
  的を射て笑顔にもどる弓始                        本多ひさ女
    「笑顔にもどる」ということは、それまでは笑顔でなかったと言うことだ。真剣な顔で的を見つめている若者の表情が、この句から見えてくる。俳句の表現は時間の一点を表すものであるが、前後の時間も暗示するものであれば、句に奥行きが出来る。もし、言葉の上で長い時間を表せば、煩瑣に感じるだけであろうが。
  霜柱踏むや地球の窪む音                          山根 征子
   「地球の窪む音」という誇張した表現が好ましい。それだけ霜柱を踏んだときの音に驚いたということだろう。確かに地球は窪んだのだ。それが何億分の一か、何兆分の一かは分からないが。霜柱を踏んだときに、それだけ想像が飛翔したことが素晴らしい。
  開演待つ白き譜面の淑気かな                      柴田久美子
    日本の文化的伝統では「待つ」や「惜しむ」が尊重されるという。出来事それ自体よりも、それを想像することが尊重されるということだ。この句で作者はコンサートの始まる前の静寂をテーマとされた。しかも奏者ではなく「白き譜面」に焦点を当てた。そしてそれが却って、コンサートの始まった後の華やかさを連想させるのだ。
  助手席の白木の箱や冬深し                        森柾 光央
   一読では見逃してしまいそうだが、よく見れば省略の利いた句であることが分かる。「白木の箱」は明らかに遺骨を入れた箱のこと。作者は斎場から車を運転していて、その隣に遺骨の箱がある。作者は車を運転しながらも意識は常にその箱にある。「冬深し」は作者の心そのものだ。
  七草の静かな朝餉又ふたり                        廣田眞理子
   お正月の間は子どもや孫が多く訪れていたのだが、七日ともなると皆帰って、また夫婦二人の生活に戻ったのだろう。七草粥は正月のご馳走で疲れた胃腸を癒すためとはよく言われているが、或いは、来客の多さの疲れを癒す日であるのかも知れない。
     
  令和5年 4月号  
  キックボード木の葉時雨を突つ切つて             上達 久子
   「木の葉時雨」は「木の葉の散る様子や音を時雨に見立てた語」のこと。木の葉の散る垂直(もしくは少し斜め)の動きと、キックボードの水平の動きの組み合わせに躍動感がある。木の葉の散る音とキックボードの音の組み合わせも面白い。
  風を呼ぶ力残して枯尾花                            須藤 篤子
   「芒」に「風」を合わせるのはある意味で常套手段である。だからそこから詩を綴り出すには、何を加えるかが重要になる。作者は先ず「芒」ではなく「枯尾花」であることに注目した。それによって「風を呼ぶ力残して」という表現が説得力を持った。「力残して」にはまた、枯尾花の矜持が感じられる。
  玄関の大きなこけし雪の宿                          山本そよ女
    旅館でよく見られる光景だが、それが巧みに一句になっている。玄関の装飾として置かれている大きなこけしと、宿の外に降りしきる雪と。それだけを言葉にしたことによりかえって、旅館の他のしつらいや空気感が読む者の心に浮かんでくる。
  眠らざるもの懐に山眠る                            西田幸江
   眠るものと眠らないものを対比させて自然界を巧みに描写している。特に眠らないものを主体としたところがこの句の成功の要因であろう。全体が静まりかえったような冬の山であっても、動いている動物はいるであろうし咲いている花はあるだろう。冬の山の文字通りの「懐の深さ」が感じられる句である。
  駅に降り京の寒さにほつとして                    池田 小鈴
   盆地である京都の寒さは独特である。北国の人でも「京都の寒さは厳しい」と言われることがある。京都人であるこの句の作者は、他方に出掛けていて帰って来、京都駅のホームに降り立ったときに感じた寒さに「ああ帰ってきた」という感覚を持ったのであろう。「京の寒さにほつとして」は矛盾しているようだが、京都人の実感だ。
  落葉踏む大地の声を聞きながら                     塩出 翠
   「大地の声」は、落葉を踏む音であると解釈した。大地の上に積もった落葉の立てるかさこそという音を、作者は「大地の声」であると感じ取ったのだ。落葉は今は葉の形をしているが、いずれ間もなく土になり、大地の一部分となる。そのような自然の営みの感じられる句だ。
  冬夕焼我の背に星ひとつ                            日野 満子
   作者は今、西に向かって冬の夕焼を見ている。そしてその反対側の東の空には早くも星が一つ上がっている。西空から東空までを一つの画面に収めた、景色の大きな句だ。そしてこの星の美しさを表す為にも、やはり季節は冬でなければならないだろう。なお、この「背」は「そびら」と読む。
  はからずも臘八に粥すすりけり                     青木 謙三
   「臘八」は釈迦成道の日のことで、各地の寺で成道会が催される。またこの日の夜は釈迦が成道の前に粥を食したことに因んで粥が食べられる。さてこの句の作者は、十二月八日に偶然粥を食べたところ、食べている最中に今日が臘八であると気付いたのであろう。「はからずも」からそれが知れる。このような季節の感じ方もあるだろう。
  日に坐して目の無き達磨年暮るる                   市川 幸子
   達磨には願いが叶ったときに目玉を入れる。それが「目の無き達磨」であるということは、願いはまだ叶っていないということが感じ取れる。しかしその達磨も悠悠と「日に坐して」いることから、叶っていないことに焦りは無いということだろう。季語「年暮るる」が効いている。一年をそのように総括している作者の姿が見えてくる。
  一年の思ひ巡らし聖菓焼く                          櫻岡 孝子
   なるほど、そのような一年の感じ方もあるのか。普通ならば大晦日や元日に一年を振り返るものだが、クリスマスケーキを毎年自分で焼いている人であれば、クリスマスが一年の区切りになることもあるだろう。作者の敬虔な気持ちが伝わって来る。
  モノクロの庭山茶花の散り急ぐ                   佐藤 洋子
   「モノクロの庭」と言い切ったことで、冬の庭の情景がよく見えてくる。おそらく他に花も咲いていない中で、山茶花だけが彩りを添えているのだろう。そうであれば、この山茶花の色は赤に違いないだろう。「散り急ぐ」と動きを表す言葉を入れたことも、この句の成功している要因であろう。
  日溜りの母ちやん床屋年の暮                      水科 博光
   母親が子の髪を切っていることを「母ちやん床屋」と表現したところが魅力的だ。庭に椅子を出して子の髪を切ることはかつてはよく見られたことだが、そこには家族の温かさが感じられる。「日溜りの」という語がそのことを表していて効果的だ。年末の忙中閑の一風景であろう。
     
  令和5年 3月号  
  境内に光あつめて銀杏散る                         村田 近子
    様々な落葉の中でも特に、銀杏の落葉はその色合いからして明るい印象がある。地面に落ちているときでもそう感じるぐらいだから、宙を舞っている時はなおさらである。また銀杏の木は大きく育つものだから葉も多く、一斉に風に葉を散らせている情景は壮観である。「境内に光あつめて」は納得できる表現だ。
  猫の尻はたきひとりの日向ぼこ                    北尾 美幸
    「日向ぼこ」に「猫」を合わせるのは良くあることだが、だからと言って二つを合わせると必ず平凡な句になるという訳ではない。要は、それに何を付け加えるかと言うことだ。「猫と一緒に日向ぼこ」では平凡だが、猫の尻を優しく叩いて追い出し、一人きりになって日向ぼこをしているところに、作者の心の動きが感じられる。
  ぽつり点く町屋の明かり初時雨                    相良 研二
   中京あたりの町屋を思い浮かべた。夕暮れ時であろう。「ぽつり」と言うぐらいだから、その一軒のみが点いて、他の家にはまだ点いていない状態であろう。静かさが感じられる句だ。今年初めての時雨に、この日初めての灯火を合わせているところが面白い。
  木の実降る森に夕日の迫りけり                    山田 正弘
    「木の実」は晩秋の季語。そうであるからこそ、下五の「迫りけり」という言葉が強く響いてくる。この「夕日」は一日の終わりだけでなく、一年の終わりをも暗示しているのであろう。読むものに対して、森の暗さだけでなく肌寒さまでもを感じさせる。
  冬落暉あす閉店の文具店                           横川 節
   私が小学生のころには、学校の正門前には必ず文具店があったものだが、この頃は文具店自体が少なくなってきている。多くの人は文具をコンビニやホームセンターで買うようになったからだろう。学校前の文具店が閉店すると、昭和の名残がまた無くなったという気持ちになってくる。「冬落暉」の季語は動かない。
  綿虫の風に逆らひ寄り添ひ来                       泉  葵堂
   一見綿虫は空中に漂っているようだが、実際には飛んでいる。よく観察してみれば綿虫には透明な羽根があることが分かる。だから風に逆らうことも出来るのだ。そして何故か綿虫は人の近くに寄ってくる。(人間の側でそのように錯覚しているだけなのかも知れないが。)綿虫の特性をよく捉えた句である。
  鐘六つ撞かれて朝の花八手                        中田 定慧
   所謂「明六つ」、つまり夜明けの時の情景。合わせる季語として「花八手」を選んだのは、「六」と「八」の数字の取り合わせの面白さもあるが、やはりその花の情緒を尊重してのことだろう。控え目な花八手には、光の厳しくない冬の朝が似合う。古都の情景が見えてくる。
  つまづきし石の小ささやそぞろ寒                  田中 節子
    「石の小ささ」であることに心引かれる。躓いた石を振り返って見て、「こんな小さな石に躓いてしまったのか」という作者の驚きが見て取れる。自分の力が衰えてきていることに対する嘆きが「そぞろ寒」という季語に象徴されている。
  菜箸のすうつと刺さる煮大根                        寺崎 智子
   「すうつと」という擬態語に魅力を感じる。「すつと」ではなく「すうつと」と四音使っていることによって、ゆっくりと菜箸を刺している様子が見て取れ、さらにそのことによって大根の煮え具合も読者に伝わって来る。或いは、この「すうつと」をどう発音するかによって、その人の大根の煮え方の好みが分かるかも知れない。
  色見草かき分け登山電車行く              鈴木とみ子  
   「色見草」は「紅葉」のこと。必ずしも草ではないものに「草」の語を付けるのは、例えば「桜」のことを「仇名草」と呼ぶのと同じような日本語の感覚であろう。さてこの句ではこの「色見草」という言葉が効果的に使われている。文字通り色々な色彩に変わった木々の葉の中を、登山電車が上っていく様子が見てとれる。
  凍星の光に触れる肌かな                             松田 悦正
   皮膚感覚を視覚で表現した面白い句。実際に肌に触れているのは冬の夜の空気の寒さなのだが、作者が今見ている星の光に触れていると表現したことによって、詩的な美しさが生まれる。寒さもまた美しいものなのだ。なおこの「肌」は「ハダエ」と読む。
  チャルメラは昭和の音色冬の夜                      栁沢 耕憲
    そう言えばチャルメラの音は久しく聞かない。この頃は夜中に小腹が空けばコンビニに行くからだろう。さて作者は実際にチャルメラを聞いたのだろうか?聞いていないかも知れない。今現在冬の夜の中に居ることが、昔聞いたチャルメラを連想させたのかも知れない。人の世は変わっても、自然はそうそう変わらないのだから。
     
  令和5年 2月号  
  ふるさとへ各駅停車花すすき                     中野 東音
   「各駅停車」は作者の乗った列車を表すと同時に、ゆっくりと故郷に向かおうとする作者の心も表しているのだろう。単なる「すすき」ではなく「花すすき」としたことで、故郷を恋う作者の気持ちが表れている。いずれにしても「すすき」は日本の原風景であろう。
  歌麿のをんなの憂ひ月夜茸                        松尾 憲勝
   美人画を得意とした歌麿であるが、その絵を「歌麿のをんなの憂ひ」としたことが独創的な見方と言うべきであろう。合わせる季語として「月夜茸」を用いたことで妖艶さが一層増した。単なる写生を越えて美の本質を捉えた句と言うべきである。
  手を伸べて触るる蛇笏の芒かな                 中畑 耕
   もちろん飯田蛇笏の「をりとりてはらりとおもきすすきかな」を本歌取りにしている。実際にはらりと重いであろうかと作者は、芒を手にしてみたのである。「手を伸べて」と一呼吸置いたことで、蛇笏の句を反芻している作者の姿が見えてくる。
  輝ける雲に乗せたる秋思かな                    三村 昌子
   「秋思」という季語は、抽象的な季語だけに扱うのが難しい。どのような具体的情景を取り合わせるかが重要なのだ。掲句では「輝ける雲」という、色々なイメージを連想することが出来る言葉を合わせたことで成功したといえる。「乗せたる」という言葉も適切である。
  プロレスも落語も好きで古酒の夜                石井 紫陽
    令和の時代にもプロレスも落語もあるが、二つを並べて置かれると、どうしても昭和時代を連想してしまう。どちらも昭和四十年代五十年代にはテレビでよく見られていた、娯楽の王者であった。そうであればこそ「古酒」という季語がよく似合う。
  手を挙げて淋しいと書く秋の空                   松井 朱實
   「手を挙げて」という具体的な表現によって、作者の心にある淋しさが、読者の心に強く印象づけられる。ただでさえ淋しさを感じさせる「秋の空」に、自分の指で「淋しい」と書いている作者。癒されない淋しさが作者の心にあるのだろう。
  四方の風受けてあしらふ芒原             川上 桂子
   「あしらふ」の措辞が見事である。この言葉によって芒の風に靡くしなやかさが存分に表現されている。「四方の風」という表現もおもしろい。実際に四方から吹いているかどうかに関係なく、芒の靡き方を表すのに、この言葉もまことに適切であろう。
  皆駅へ駅へと朝の落葉道                           中澤 朋子
   「駅へ駅へ」という繰り返しが効果的に使われている。これによって人の多さや、その人々の間で統率が取れているわけではないことなどが表されている。俯いて黙々と通勤先に向かっている人々の姿が見えてくる。「落葉」が寂しさを強調している。
  瓢には瓢の思ひあるならむ                       舟木 轍魚
    もちろん人には人それぞれの思いがあり、それを目に映る自然界にそれを投影して「何々には何々の思いがあるだろう」と連想するのは誰しもあること。ただ投影する対象が何かで、それが詩になる。掲句では、一見飄々として見える「瓢」に投影したことで、詩として成立した。
  晴天を右岸に寄せて秋の川                        東山美智子
   川の右岸にだけ陽が当たっている情景であろうが、それを「右岸に寄せて」と表現したところが斬新である。まるで秋の川が自分の行為として日差しを片側に寄せたと言い表したことで、夏の川との違いが読者の脳裏に鮮明に表れる。夏の明るさのもう無くなった秋の川なのだ。
  欄干の花紋に翳り色葉散る              小倉 和子
   「紅葉散る」は冬の季語であるが「色葉散る」は秋の季語とされている。そしてこの句の場合はこの「色葉散る」が効果的に使われている。桃山句会の橋本吟行の時の吟であるが、「色葉散る」によってかつての遊郭の賑わいと今の静かさとの対比が強く読者に印象づけられる。
  木守柿空に孤高の風そよぐ              篠田 裕司
    柿の木に一つだけ収穫せずに残しておく木守柿。晩秋・初冬の風の中に輝くその姿はまさに「孤高」のイメージが有るが、この句では「木守柿が孤高」であるとは言わずに、空を吹く風を孤高と捉えたところが面白い。この孤高は作者の理想でもあるかも知れない。
  名月の光の底に森眠る                             髙橋 賀代
   名月を詠んだ句であるが、月それ自体を主人公とするのではなく、その下に静もる森を主人公としたことで句に広がりが出た。中七の「底に」という措辞も適切で、中天の月の明るさと、地上の森の暗さとの対比が巧みに表されている。
     
     
  令和5年 1月号  
  くつきりと雲寄せ付けず今日の月          貴志 治子
   令和四年の仲秋の名月は本当に美しい月であった。それを作者は「くつきりと雲寄せ付けず」と表現された。見たままの表現ではあるが、それだけに美しい月を見た作者の喜びが素直に表れている。「寄せ付けず」と月を主語にした表現が力強い。
  ファッション誌開けば届く萩の風          北尾 鈴枝
   ファッション誌を開いたから風が吹いたわけではない。それはあくまで偶然の出来事だ。しかし「ファッション誌」「萩」の取り合わせにより詩情が生まれる。「萩」によってファッション誌に載っている様々な写真までもが連想できる。他の季語ではそうはいかない。「萩の風」は動かない。
  人愛し人に愛され秋深む              伊藤 道子
   上五・中七が抽象的な内容だが、下五の季語でそれを巧く受け止めている。「秋深む」は単なる自然の情景の描写と言うよりも、この場合は深まる秋を実感している作者の姿の描写でもあるのだろう。時の流れの中で人の絆の尊さを実感している作者の姿がそこにはある。
  青空のあくまで高く敗戦忌             石浜 邦弘
   八月十五日の終戦の日は晴れることが多いように思う。抜けるような青空を見ていると七十年以上前のあの日もこのような空だったのかなあと、戦後生まれの私ですら思うことがある。その空の青さは、戦争で亡くなった方達への追悼の思いを象徴しているように思われる。
  物陰のみな淡くなり秋彼岸             太田 朋子
   真夏の強い日差しの中では陰はくっきりと現れるが、秋の彼岸ともなると日差しも和らいできて、それとともに物の陰も穏やかな表情を見せるようになる。春の彼岸との違いを上五・中七が的確に表現している。また同時にこの上五・中七は亡くなった方達への追慕の気持ちも表しているのだろう。
  頂は白雲の中豊の秋                秋山 満子
   描かれているのは頂上が雲に覆われている山の姿だけだが、それが「豊の秋」と巧みに合っている。山の周辺の光景が想像できるからだ。白雲の傍には青空が広がっており、山の麓には農村が広がっており、そしてそこで働いている人達は毎日目にするこの山を敬愛しているであろうことなど。まさに「豊の秋」の風景だ。
  長子ゐて末つ子のゐて榠樝の実           中畑 恵
   ごつごつした形で、しかも生食には向かない「榠樝の実」であることが、上五・中七の言葉に奥行きを与えている。この兄弟の姿や性格やその関係なども、読む者にいろいろと想像させる。この季語は動かないであろう。兄弟の多かった昔の家族が思い浮かぶ。
  鮭のぼる川滔滔と日を返し             柴田久美子
   「滔滔と」という言葉が効果的に使われている。字面の上では「日を返し」に掛かってはいるが、情景としては「鮭」の描写でもあるのだろう。数多の鮭が川を遡っていく情景をも、この「滔滔と」が表しているように思われる。その鮭の鱗もまた日を返して光っているのだ。
  休暇明カッターシャツの輝きて           中島 三治
   制服姿の学生であろう。夏休みで多くの体験をして再び学校に帰ってきた彼らは、人間として一回りも二回りも大きくなっていることであろう。「カッターシャツの輝きて」という言葉にそれが感じられる。シャツだけでなく彼らの表情もまた輝いていることであろう。
  秋風に松を残して庭師去ぬ             久保木倫子
   松の手入れをテーマにしているが、それが終わって、しかも庭師も去った後を詠んでいることが面白い。「秋風に松を残して」という表現からは、その場には松と風以外何もない寂しさ、静かさが感じられる。「秋風」を主役としたことが成功している。
  名月を追ひかけて行く列車かな                    平林 敬子
   偶然列車の進行方向に月があったのであろうが、それを「名月を追ひかけて行く」と表現したところが面白い。もちろん追いかけても追いかけても月は同じ角度で列車の前方に見えているわけで、追いつくことは出来ない。そのもどかしさをも列車が感じているようで、その点も面白い。
  朝霧の包む城跡一揆の碑              今泉 藤子
   季語「朝霧」が巧みに使われている。今現在その場を霧が覆っているということを意味すると共に、過去と現在という二つの時間が繋がれている幻想感も漂わせている。また下五で「一揆の碑」に視点を絞り込んだことも効果的である。霧の中でこの碑だけが鮮明に見えてくる。
  ここからは下る坂道草の花             三宅稀三郎
   苦労して上ってきた坂道だが、ここからは下りになると思うと気持ちも楽になる。その安堵の気持ちが「草の花」に象徴されている。派手な花ではなく「草の花」であることで、気持ちも一層楽になったことであろう。
     
     
  令和4年 12月号  
  人の輪のやがて踊の輪になりぬ           大野布美子
   盆踊りの場に三々五々に人が集まっている段階では「人の輪」だが、盆踊りが始まるとそれが「踊の輪」になる。同じ状態のものが、ある時点を境として別のものとして認識されるという面白さがこの句にはある。もちろん「踊の輪」の本質は「人の輪」というところにもあるのだが。
  揚花火終はり独りと気付きけり           山下 千代
    花火が上がっているときにはその美しさにのみに心がとらわれていたのだが、終わってしまうとふと自分が一人であることに改めて気付いた。花火が華やかであっただけにその反動として一人であることが一層寂しく思われる。心に沁み入る一句だ。
  秋澄むや山ふところにベーカリー          髙橋 良精
    秋の澄んだ空気と、山懐にあるパン屋。その二つが並べられただけなのに豊かな詩情が感じられるのは何故だろう。おそらく「ベーカリー」という言葉の持つ洋風なニュアンスが、新鮮さを感じさせるからだろう。もちろん、焼きたてのパンの香りも影響しているだろうし
  砂浜の砂を均して秋の風              吉瀬 秀子
   風はやはり砂を均しているのだが、「均して」と言い切ることが出来るのは、砂が乱れていないからだろう。つまり砂浜に足跡がないのだ。海岸で遊ぶ人もいなくなった秋の砂浜の様子がよく表現されている。それと同時に一抹の寂しさも感じられる。
  青田波千の棚田を駆け登る             須﨑咲久子
   「千の棚田」という言葉で、多くの棚田が山の斜面に作られているこの土地の様子が読む者の脳裏に浮かび上がってくるし、「駆け登る」の言葉には勢いが感じられる。「青田」という季語とも相俟って、小さな国土で懸命に働いてきた日本という国の風土が感じられる佳句だ。
  蜩や最終バスが出ると言ふ             梅田喜美惠
   最後の一語「言ふ」が効いている。誰かが作者に対して「最終バスが出ますよ」と言っているのだ。この二人の関係が、句の奥行きを深くしている。深夜ではなく蜩の鳴くときが最終バスであるということも、この土地の様子が想像される。
  ワクチンを打ちし夕暮れあきつ増ゆ         上田 古奈
    一昨年から続くコロナ禍。それへの対策として政府はワクチンの接種を奨励している。しかしワクチンには副反応もあり、人によっては重い副反応の起きることもあると聞く。そのような不安感が、「夕暮のあきつ増ゆ」に巧みに象徴されている。
  山風に遅れて揺るる秋簾              増田多喜子
    よほど強い風でもない限り、風と簾が同時に動くことはないだろう。しかし「遅れて揺るる」という表現には何か物寂しいところが感じられ、それが「秋簾」によく合って着る。「山風」という言葉も、周囲の情景を表すのに上手く使われている。
  タクシーに小字を告げて帰省かな          和田 秀穂
    上五・中七が情景を雄弁に物語っている。鉄道の駅を下りてからバスの便もあまり良くない土地が想像される。それと同時に生まれた地であるこの小字に対する作者の愛情も感じられる。「帰省」という季語がよく働いている。暑い夏の日差しまでもが感じられる。
  終業のチャイム秋めく町工場                        水科 博光
  終業のチャイム自体は一年中同じ音を立てていることであろう。しかしそれを聞く側の感覚は、四季の変化に伴って変わっていくものだ。同じ音であっても、過ごしやすい季節に聞けば涼しげな感じに聞こえる。この句は、そのような人間心理を巧みに表現している。
  朝凪の大河こぎゆく小舟かな             藤沢 道子
    「朝凪」という言葉からは波の穏やかさや、通る舟の少なさも想像され、海も間近な大河の静かな様子が想像される。背景には朝焼けも見られることであろう。また、「大河」と「小舟」の対比も鮮やかで、一幅の絵を見ている感覚を覚える。
  語らひし卓に季寄せと秋思かな           新谷 雄彦
    「卓に季寄せと湯呑みを置いた」などという句ならいくらでもある。それに対してこの句は「秋思」が卓にあると表現したところで、味わいが出て来る。「語らひし卓」というのも巧みで、それによって今し方まで他の人が居たことが暗示されている。その人が去って一人俳句を作っている作者の姿が見えてくる。
  固く髪結ひたる朝や原爆忌             仲野 由美
   固く髪を結うことと原爆忌の間には何の関係もないようだが、二つを並べるとそこに詩情が生まれる。「固く髪結」うということに、作者の強い意志が感じられる。その意志が「戦争を再び起こしてはならない」という決意であることは間違いないであろう。
     
     
  令和4年 11月号  
  諾へば老いは易きよみちをしへ           福田 圧知
   人生に対する作者の深い洞察がうかがわれる句。「みちをしへ」の季語が効果的だ。あたかも「そのような考え方に導いてくれる」先達のような存在であるかのようにも思われる。「みちをしへ」と平仮名表記にしたことにも、優しさが感じられる。
  炎天や影は歩幅をはみ出さず            梅原 清次
    「影は歩幅をはみ出さず」の表現が巧みである。おそらくは正午近く、陽が真上から射している情景であろう。そうであればこそ人の陰は真下に、つまり両足の間にしか出来ない。否定表現で終わったことが、この炎天の激しさを強調している。
  図書館の卓に置きある夏帽子            清水山女魚
  図書館の机の上に帽子が置いてある。おそらく先に来た人が場所取りに帽子を置いて、しばしどこかへ行ったのだろう。この人の事情をあれこれ想像したくなる物語性のある句だ。大きな夏帽子であればこそ、作者の目に止まったのであろう。この季語は動かない。
  かたつむり角は悲しきそぶり見せ          西田 幸江
    作者の内心をかたつむりに投影させた句であろう。確かに「かたつむり」という虫は、動きの遅さと言い重い荷を負っていることと言い、悲しい面も持っている。そのかたつむりがゆっくりと角を振る様は、ある意味で嘆いている表情とも見ることが出来る。
  家毀つ音はたと止み夕涼し             森田 真弓
    おそらく日中は激しい音を立てながら解体作業が行われていたのだろう。一日の作業の終わる夕方になってその音が止んだ。ふと気付くと陽も傾いてきていて涼しい風が吹いている。そういう情景であろうか。音によって温度を表現した面白い句だ。
  炎暑へと駆け出し海の子となりぬ          中村 文香
  元気な子供の姿が遺憾なく描写されている。「海へ駆け出し」たのではなく「炎暑へと駆け出し」たと表現したことにより暑さをものともしない様子が感じられる。また「海の子となりぬ」からは、海水浴を存分に楽しんでいる姿が目に浮かんでくる。
  沖をゆく船影一つ大夕焼              山本 信儀
   遠景ふたつを取り合わせた形であるが、片や画面を占める夕焼と、片やもはや小さな点としか見えない沖合の船影という大きさの違いが読者に深い印象を与える。この船の旅立っていく先はどこなのだろうかなどと、想像が広がっていく。
  暗闇となりて終はりぬ庭花火            秋山 順子
   花火が終わった後の情景が巧みに表現されている。花火をしているときはその光であたりは照らし出されていたが、終わればあたりは元の夜闇に包まれてしまう。「暗闇となりて終はりぬ」は、そのような光の加減を表すと共に、花火の終わった寂しさをも表しているのだろう。
  白桃や丸ごと人を愛したい             柳  爽恵
   「丸ごと人を愛したい」はこの作者らしい大胆な表現だ。それに合わせる季語として「白桃」を選んだのも適切だ。「西瓜」では大きすぎるし「苺」では小さすぎる。そして「白桃」という傷つきやすいものであることも、この句のないように照らして適切である。
  しゆんしゆんと昭和の音し麦茶沸く         山岡 千晶
   近頃では麦茶も二リットルのペットボトルで買うことが多くなっているのではないだろうか。そう思えば昔のように大きな薬缶で麦茶を沸かしていたことが懐かしく感じられる。まさにあの音は「昭和の音」というのに相応しいだろう。「しゆんしゆん」と「しようわ」の韻も面白い。
  サングラスして仁王立ち五歳の子          曲田 章子
   どんな厳つい男性なのだろうかと思っていたら、「五歳の子」なのだから、かわいらしい。ひょっとしたらこの子はテレビで見た大人を真似ているのかも知れない。そう考えるとさらに可愛らしく感じられる。
  いざいざと親子いくさの草矢射る          武  義弘
    上五・中七まで読んだ時点では「何だろう、深刻な話だろうか」と思うが、下五の「草矢射る」でほっと頬が緩む。このような「親子いくさ」なら微笑ましいかぎりだ。「いざいざ」という掛け声にも心温まる。おそらく実際にそう声に出していた親子なのだろう。
  月下美人自己主張して独りかな           森柾 光央
   月下美人という花の特徴が良く表れている。大きな花であると同時に、一つしか咲かないということが「自己主張して独り」という表現によく合っている。それと同時にこの表現は、人間社会にも見られる人物像の描写とも思われるところが面白い。
  令和4年 10月号  
  吊橋を引つぱつてをり蜘蛛の糸           橋本 爽見
   もちろん現実には吊橋に蜘蛛の巣がからまっているだけなのだが、それを「吊橋を引つぱつてをり」と表現したところ が俳諧である。この表現が可能になるのも、吊橋と蜘蛛の巣という構造の似たもの同士であるからだ。そのあたりの技巧はさすがなものである。
  合歓の花やさしい人になりに行く          磯部 洋子
   合歓の花の雰囲気は「やさしい人」という言葉とよく合っている。しかし普通ならこの句の後半を「やさしい人に会ひに行く」などとするであろうが、それを「なりに行く」としたところが詩情である。人と優しく接しようという作者の意思の表れであるからこそ読者に強く響くのだ。
  明け易しこの世に長居して飽きず          森本 隆を
   この作者らしい人生観が見られて面白い。「この世に長居して飽きず」とは一度言ってみたいものだ。「明け易し」の季語が効果的である。また一日が早も始まった。また色々な体験が作者を待っていることであろう。
  白靴やこの健康のいくつまで            服部 史子
   素直に詠まれた一句。この夏も元気に白靴を履いてウォーキングをしている時にふと心をよぎった感慨であろう。中七・下五が不安を感じさせる表現ではあるが、「白靴」の季語によってその不安感が消されている。きっとこれからも健康にウォーキングされることであろう。
  夕さりて鴉の声や沖縄忌              石井 紫陽
   鴉の声は聞こえてくる時間帯によって様々な表情を見せる。夕方の声は心なしか悲しげなものに感じられる。作者もそのように思われたのだろう。悲しげな鴉の声を聞いたときにふと、今日が沖縄忌であることを思い出した。鴉のようなどこにでも居る鳥の声で沖縄忌を連想したことは、作者の感性であろう。
  八合目よりは鎖場雲の峰              皆見 一耕
   「鎖場」の言葉によって急な岩場が想像され、そらに「八合目よりは」によって視線が上に向かっていることが想像される。急な岩場の上には、入道雲がさらに高くそびえている。その構図が面白い。「雲の峰」からは強い夏の日差しも想像されて、この岩場の情景が具体的に見えてくる。
  子供より父のよろこぶ鯉幟             坪井たまき
   この頃は多くの行事に関して、主人公であるはずの子供よりも大人達の方が楽しみにしているということが増えてきたように思われる。そうではあっても、鯉幟についてはまた格別であろう。この「父」は自分の子供時代を回想するとともに、鯉幟の勇姿を喜んでいるのではないだろうか。
  端居して遠き記憶をひもとけり           吉岡 裕世
   中七・下五の表現に、床几にゆったりと座っている作者の姿が想像される。ひょっとしたら写真などを見たりさえしていないのかもしれない。ただ、今感じている心地よさを手がかりにして、同じように心地良かった子供時代を回想しているのであるかも知れない。「端居」という言葉の本質が表れている句だ。
  雨蛙息を潜めて何思ふ               末廣 稔子
   「蛙」と言えばその声が詠まれることが多いが、「雨蛙」の場合は声を詠まれることは少ないように感じる。その佇まいが詠まれることの方が多いようだ。この句も、雨蛙の佇まいを詠んでいる。「何思ふ」の語に、雨蛙の眼差しも感じられるようだ。
  魂は天にあづけて昼寝かな             山根 征子
   「魂は天にあづけて」の表現に、いかにも大らかな昼寝の様子がうかがえる。何の心配ごとも無く、寝苦しさも無く寝ているのだろう。一時の安らぎを表すのに、これ以上の表現はまあ無いだろうし、またこの上五・中七にあう季語としては「昼寝」以外に無いだろう。
  夏蝶や追ふ幼子にもつれ舞ふ            山奥由美子
   「もつれ舞ふ」の語が、蝶の飛ぶ様子を正確に描写している。それと同時にこの語は蝶を追う子の走る様子の描写でもあるのだろう。「幼子」であることが、そのような連想を誘う。この幼子もまた足をもつれさせながら走っているのであろう。
  誰を待つでもなき庭に水を打つ           伊藤 泰山
   打水は門口の埃を押さえまた温度を下げる為に行うものであるが、それは同時に客人を迎えるためにも行われる。この句ではその後者の意味合いに重点を置いたもの。誰かを迎えるかのように打水をしてみても、誰が来る予定も無い。そこに一抹の寂しさが漂う。
  九輪草思ひ出つきぬ山の友             田中 せつ
   九輪草はサクラソウ科の植物で五月から六月にかけて花を咲かせる。その花の付き方が仏塔の九輪に似ているのでこの名が付いた。山間部に群生が見られる。それだからこそ、作者は九輪草を見る度に、一緒に山歩きをした友のことを思い出すのだろう。 
  令和4年 9月号  
  山びこの声やはらかき若葉山 竹内 久子
   山彦の響きが実際に柔らかくなるのかどうかは分からないが、柔らかな緑色に染まった木々に跳ね返ってくるのだと考えれば、それも納得できる。「山びこの声」としたところも、気配りが効いていて、物理現象ではなく山に住んでいる妖精の声であるかのように感じられる。それも若葉の季節であればこそであろう。
  捩花を咲かせて婆の反抗期  讓尾三枝子
   「捩花」は、その花の付き方からよく「反抗期」と合わせられるが、その場合は思春期の子供達を詠む場合が多い。しかしこの句では「婆の」としたところが面白い。しかも「婆」と軽く言ったところに俳諧が感じられる。「捩花」は捩れて花がついていても、その捩れ方は規則正しい。この人も反抗期ではあっても筋は通す人なのだろう。
  菖蒲湯の菖蒲の長さもてあまし 吉田 鈴子
   菖蒲湯も柚子湯も無病息災を期して行われるものであるが、俳句にする際には両者の違いを意識して作りたいものだ。作者は菖蒲の長さに着目してその違いを詠み上げた。確かに柚子では「長さをもてあまし」などということはないのだ。
  元気かと日日草が問うてくれ 川西万智子
   「日日草」という言葉が巧みに使われている。初夏から秋まで咲き継ぐ花期の長い、しかも一日草であればこそ、毎日挨拶の言葉を掛けてくれているような感じがしてくるというものだ。小ぶりな明るい色の花であることも、この句の雰囲気に寄与している。きっと作者も毎日答えを返していることであろう。
  山に来て山の声聞く暮春かな 桜井 京子
   「山の声」には、鳥の声や風の渡る音など色々なものが想像されるだろう。しかし私は、それらも含めた「山それ自体が上げている声」の意味で解釈したい。俳句では山は眠ったり笑ったりする。それと同じで山が声を出しているのだと解したい。緑のいよいよ深まっていく「暮春」の山の形容として、それが相応しいものと私は思う。
  麦秋や日輪赤く沈みゆく 太田 朋子
   一面に実った麦畑の遥か彼方に夕陽が沈んでいく、大きな景色の見えてくる句だ。。麦畑の広さは句には書かれていないが、「麦秋」という時候を表す季語を使ったことでそれが感じられる。また、麦の黄金色と夕日の赤との色の対比が美しい。
  小でまりや小雨に白さ際立ちぬ 中森 敏子
     「小でまり」「小雨」の「小」の繰り返しが、繊細な印象を読む者に与える。また「小でまり」と後半部分をひらがなにしたところにも繊細さが現れている。画面の中に小手毬の花と雨だけを描いたことも成功している。際立つ白さが読者の意識に強く残る。
  麦の秋乾く風吹く畦の道 川上 桂子
     「麦の秋」「麦秋」は初夏の季語。日本の気候の中では過ごしやすい季節である。そうであればこそ「乾く風吹く」は納得ができる。これは「乾燥した風」という意味ではなく「湿り気のない風」の意味であろう。風にそよぐ麦の穂の黄金色が目に美しい。
  烏城背に白無垢写す青葉風 石原 盛美
   岡山城は、その黒い外観から「烏城(うじょう)」とも呼ばれている。その烏城を背景にして結婚式の記念撮影をしているカップルがいる。その土地の威厳ある建物を画面に入れることで、めでたさが表現されているが、「青葉風」がさらなるめでたさを添えている。また、「黒」「白」「青」の色の取り合わせも目に美しい。
  薔薇アーチ表札ふたつ掲げゐて 澤田 治子
   玄関に薔薇のアーチを作っているのだから、それなりにこまめな人の住んでいる家であることが想像される。そして「表札ふたつ」とあるから二世帯住宅なのだろうかと想像が膨らんでいく。この家に住んでいる人に対する物語性が感じられる句だ。
  島原の西門跡や五月闇 廣岡トモ子
   この「島原」は京都の遊里のこと。江戸時代に作られたが現在では遊郭としては廃れて、輪違屋、角屋の二軒のみが残っている。句に詠まれている西門は、昭和年間に交通事故で倒壊し、今ではその地に碑が建てられている。「五月闇」という季語が、この地の栄枯盛衰を象徴しているかのようである。
  鉄線を一輪外す花鋏 今泉 藤子
   「一輪剪る」ではなく「外す」であることが、如何にも鉄線の花らしい。花の大きさや、茎の細さなどから「外す」という表現には納得できる。下五の「花鋏」も気配りが効いている。この一語によって、鉄線花を剪ったのだと、読者は間違いなく諒解できるのだから。
     
  令和4年 8月号  
  藤房や風のもつれを風のとく 北尾 きぬ
   「藤」に「風」を合わせるのはよくあることではあるが、この句では「風のもつれを風のとく」と対句を用いて藤を形容していることが技である。これによって藤房の様子がよく見えてくると同時に、「風」の音の繰り返しによって句にリズムが生じてくるからだ。
  振り向けば今日が暮れゆく山桜 山下 千代
  単に「日が暮れる」とはせずに「今日が暮れゆく」としたことによって、今日この日を大切にした作者の姿が見えてくる。おそらく桜を見ながら充実した一日を送られたのではないだろうか。「山桜」という言葉が「山」をも連想させ、山に沈んでいく夕陽が想像されるのも面白い。
  夕暮れは何故に淋しや葱坊主 亀山利里子
   「何故に」と言ってはいるが、作者には勿論何故かは分かっているのだ。この「何故に」は一つの強調の表現と言って良いだろう。この作者の気持ちを「葱坊主」という季語がしっかりと受け止めている。葱の一生の終わりである葱坊主には確かに寂しさが漂っている。
  空き家にも残りし屋号燕来る 中田 節子
   人が居なくなった家は確かに寂しいものであるが、そうは言ってもそこにはまだ息づいてるものがある。その一つが屋号であり、今年も又やって来た燕である。これによって、この家にもまた住む人がやって来るかも知れないことが想像され、ある種の意味での希望が感じられる。
  春愁や細くこぼるる砂時計 北尾 美幸
   「春愁」という季語は「春の楽しさの反動で、何となく気分がすぐれない」という意味である。だから合わせる言葉には、「不安」を連想させる言葉を選んではならない。それでは「春愁」という季語の本義を外してしまうからだ。「何となく寂しい」という感じの言葉を合わせねばならない。例えばこの句のように。
  囀の重なり樹樹の明るしや 金子 敏乃
   「囀の重なり」の表現が的確で、まるで鳥たちの華やかな囀りが聞こえてくるようだ。また「樹樹」と表記したことによって、木も重なっていることが読者に対して視覚的に伝えられている。文字通り、全体から明るさが感じられるような句だ。
  花の昼鎌倉彫の工房に 馬場 久恵
    鎌倉彫は、模様を彫り込んだ木地に漆を塗った工芸品で、その起源は鎌倉時代の仏具作成に遡るという。「花の昼」という季語であるが、これは鎌倉彫の美しさと響き合うとともに、鎌倉彫の伝統の長さに対する敬意も含まれているのであろう。
  逃げ水を追つてハーレーダビッドソン 萩原 胡蝶
   「ハーレーダビッドソン」は有名な大型バイクの銘柄であるが、そういう知識が無くとも十音の片仮名は重量感を感じさせる。「逃げ水を追つて」にはスピードが感じられる。ハーレーダビッドソンのエンジン音が感じられるような句である。
  朝の日を受けたんぽぽの百の絮 秋山 満子
    「風」という言葉も「飛ぶ」という言葉も使われていないが、たんぽぽの絮が飛んでいく情景が見えてくる。「風」を使わなかった分、「朝の日」という言葉を使えたので、日を受けて光りながら飛び散っていく美しい絮の様子が表現できている。
  うららかや母から子への京言葉 柴田久美子
   地元の人達が柔らかな京言葉を話しているのに感心が向いたというのも、関東在住の作者ならではだろう。「母から」も言葉の選択が適切で、これが「父から」だと俳句にならない。「母から子への」は会話が行われている場の描写であると同時に、京言葉が親から子へと伝承されていることをも暗示しているのだろう。
  産土の風知りつくし紅枝垂れ 岡本 和男
   「紅枝垂れ桜が風に揺れている」というだけなら平凡だが「産土の風知りつくし」としたことで、情景が一気にはっきりと見えてくる。この紅枝垂れ桜の樹齢がどれほどのものか、どこに植えられているか、そしてこの木を作者がどれほど慕っているかなどが読者に伝わって来る。
  野に山に光撒きゆく若葉風 板谷つとむ
  「光り撒きゆく」の措辞の表す明るさがなんとも魅力的である。野山を渡る風に、木々の若葉が翻り、葉に反射する日差しが乱反射している。まさに「光撒きゆく」という情景であろう。また「野に山に」と大枠で捉えたことによって、場の広がりも想像できる。
  山伏の花の奥行く吉野山 鈴木とみ子
   「山伏」と「花」という、吉野に相応しい素材が選ばれているが、それを「山伏の花の奥行く」と句に仕上げたところが面白い。吉野の花の奥へと消えてゆく一人の山伏。それはあたかも過去から表れた幻影がまた過去へと消えてゆくような錯覚を読者に与える。
     
  令和4年 7月号  
     
  タクシーの隠れて休む花の昼 中山 仙命
   花見のシーズンはタクシーの運転手にとっても一年で一番忙しい季節であろう。かき入れ時ではあるが休憩の時間も無いことは運転手にとっては辛いことであろう。一休みしようとしても客に見付かれば乗せるように頼まれ、頼まれれば乗せざるを得ない。結局、休むのは「隠れて」となる。世情の一風景を巧く一句にされた。
  大樹の枝雲もろともに剪定す 町田 珠子
   作者は、剪定作業を下から見上げているのであろう。「大樹」であるからには、上の方にある枝はそれこそ空の間近に見えていることであろう。「雲もろともに」はそのような高さを読者に印象づけると共に、木の大きさも感じさせる。雄大なイメージの句だ。
  水紋は風のあしあと春の池 大野布美子
   「水紋」は「水面に出来る波紋」のこと。水紋があると言うことは風が吹いているのであるが、それを「風のあしあと」と表現したところが詩である。「春の池」によって、緩やかな風が吹いていることが想像される。それと同時に、水紋に反射する日の光も読者の目に見えてくる。
  若布刈ざくりざくりと軸を切る 高橋 良精
   「ざくりざくり」という擬音語が効果的に使われている。「ざくざく」ではなく「ざくりざくり」であることに、力強さや、作業の厳しさが感じられる。擬音語を使う時にはそのような点にまで気配りが欲しいものである。臨場感のある佳句だ。
  昔昔の夢ばかり見る彼岸かな 三村 昌子
   「彼岸」という行事の本質を言い当てている。祖霊に祈りを捧げる時には、同時に自分の人生の過去にも思いは至るものである。「夢ばかり見る」は必ずしも寝ている時に見る夢とは限らないであろう。「空想する」の意味も含まれていると思われる。
  卒業へ長き廊下をゆつくりと 横川 節
   「卒業へ」は「卒業式会場へ」とも取れるが、「卒業というものへ」とも解釈できるところが面白い。学生は卒業という時に向けて学校で色々な経験を積んでゆく。そう考えれば「長き廊下」もその意味で考えることが出来る。いずれにしても、若い人達には「ゆっくりと」人生を歩んでいって貰いたいものだ。
  丸み増す多摩の山山遠霞 浅見まこと
   春になると山山は表情を変える。冬には稜線や山襞が鋭角に見えていたものが、木々の芽吹きに伴って柔らかく見えるようになってくる。掲句の「丸み増す」はそのような様子のことであろう。さらに霞もかかってくると一層柔らかく見えることだろう。
  親戚の子のごとく来て燕 寺崎 智子
   「親戚の子のごとく」という比喩が、燕に対する作者の愛情を感じさせる。確かに、毎年やって来て顔を見せる燕は、親戚の子が遊びに来ているようにも思われるものだ。その小ささやかわいらしさも、予告もせずにやって来ることも「親戚の子」と言うのに相応しい。
  茶筒の蓋ゆつたりと降り日永し 和田 秀穂
   日常のありふれたことを巧みに一句にされた。茶筒の蓋は本体とぴったり合うように作られているから、閉まる時もゆっくりと下りてゆく。その動きの遅さと、春の日の暮れ遅さとがうまく合っている。単に遅いというだけでなく、心のゆとりも感じられるのだ。
  春の夜のチェコ語で歌ふラブソング 小國 裕美
   チェコ語がどのような言語なのか、どのような発音でどのようなリズムなのか私は知らない。しかしそれでもこの句を鑑賞することは出来る。「知らない言語である」ということ自体が異国情緒を感じさせるからだ。「春の夜」という季語がその異国情緒を深めている。
  雛あられ旅行かばんにそつと詰め 平林 敬子
   たまたま旅行に出る日が三月三日だったのだろう。それで雛あられを鞄に詰めた。旅に出ている間は雛祭りの行事に関わることは出来ないのだから、せめてもの思いだったのだろう。季節感を大切にしたいという作者の心が読者に伝わって来る面白い句だ。
  春寒や波呟きて山黙す 加藤 美沙
   舞鶴に住んでおられる作者ならではの句であろう。初春の海と山を並べて、海は「呟き」そして山は「黙す」と対照的な表現でそれぞれの様子を描写した。「春寒し」の季語と相俟って、大自然の圧倒するような力が読む者の心に迫ってくる。
  鞦韆や風になるまで漕いでゐる 水科 博光
   子供が漕いでいるとも考えられるし、また作者が童心に返って漕いでいるとも考えれれる。いずれにしても、「風になるまで漕いでいる」という表現に爽やかな気持ちになる。こういう句を読むと、「鞦韆」が春の季語であることが納得である。
     
  令和4年 6月号  
     
  山里に古代の神や木の根開く 中村 優江
   「木の芽開く」は春の季語で、山間部に降り積もった雪は春になると先ず木の根の回りから解けてゆくことを意味する。その自然現象に対して作者は神の存在を感じた。古代から伝わる日本人の心性、宗教観を表した句と言ってよいであろう。
  ただいまの声一人づつ日脚伸ぶ 梅原 清次
   「日脚伸ぶ」という季語そのままの温かな印象の句である。春が近づき日没時間がおそくなるにつれ、家族も日のある内に帰宅できるようになる。また、帰宅する者もそれを迎える家族も言葉を掛け合う。その家族の絆も又あたたかなものである。
  節分の鬼透明にして辻に 大西 洋子
   一読、文字通り鬼気迫るものを感じた。「節分」は鬼の存在を一際強く感じる時節でもある。鬼の姿は人の目には見えないが、そこらの辻にも普通に存在するものなのだ。作者はそれを敏感に感じ取っている。中七から下五への句跨がりが不安感を象徴している。
  梅ふふむ近づいてくる人の声 山本そよ女
   字の上では梅の蕾と人の声が描写されているだけだが、なんとも言えない温かさを感じる。梅園への観光客がそろそろ出て来ている季節であることが暗示されていることもあろう。「近づいてくる」という言葉が、来るべき季節への期待感を象徴しているからということもあるだろう。
  信玄の像や冬山侍らせて 岡田 慶子
   近景の信玄像と遠景の冬山の対比させた写生句ではあるが、「侍らせ」という語が効果的に働いている。山のような大きなものを「侍らせ」る主語としては「信玄」クラスの人物でないと無理であろう。また「冬山」であることが信玄の人生をも象徴しているように感じられる。
  侘助を小壺に活けて客を待つ 石堂 初枝
   「侘助」という控えめな印象の花であるからこそ「小壺」という表現も活きてくる。また、「侘助を小壺に活けた」というだけなら平凡だが「客を待つ」とあるので想像が広がる。花は控えめで壺は小さいが、客を待つ期待感は大きいのだ。
  太極拳春の扉を押し開く 武田 捨弘
   太極拳をしている人の姿を見てそれが「春の扉を押し開」いているとかんじることはなかなかで出来ることではない。しかし太極拳のゆったりとした動きは「押し開く」という表現に相応しいものであるし、また温かさをも感じさせるものである。肉眼ではなく心の目で観察した写生句と言うべきであろう。
  父の手を離れ子の凧上がりけり 山岡 千晶
   父子で凧揚げをしていて、子がまだ巧く凧を揚げられないので、先ずは父が揚げてやり、うまく揚がったところで糸を子に渡したという情景であろう。「父の手を離れ」たのは文字の上では「凧」なのだが、「子」もまたいずれ父の手を離れるであろうことも想像させて、面白い句である。
  子等巣立ち一人ぼつちの福は内 澤野須美子
   豆撒きは元気よくするのが通例だが、このような豆撒きもあるだろう。「一人ぼつちの」には寂しさを感じるが、「福は内」には希望も感じられる。子供達が帰省してくることを期待している作者の姿が見えてくる。
  川下へ細波光る余寒かな 村岡 和夫
   「細波」には色々なイメージがあるが「余寒」という言葉と合わせられると、冷ややかな風が川面を小刻みに揺らしているような情景が想像される。川の水までもが風の寒さに震えているような印象だ。震えたまま細波は川下へと流されていく。
  うたた寝の露座仏囲む蕗の薹 田端加代子
   「山眠る」という季語があるから、露座仏も冬の間は眠られるかも知れない。少なくともそのように想像することは可能だろう。春になって温かくなると目を覚まされるが、まだ「うたた寝」の状態だ。目覚めを促すように蕗の薹が辺りを囲んでいる。
  猫の抜け膝の子の抜け春炬燵 小倉 和子
   最初は賑やかに炬燵に入っていたのだが、猫が去り、子供が去って作者だけが寂しく取り残された。その寂しさを表すには、「季節外れ」というニュアンスも含む「春炬燵」の方が適切であろう。また「抜け」の繰り返しも効果的に寂しさを表している。
  かばんから春を小分けに旅土産 柳澤 耕憲
   上五・中七までを読んだ段階では「何だろう」と疑問に思うが、下五を読んで納得がいく。鞄一杯に詰め込んだ旅土産を配っているのだ。それにしても「春を小分けに」とは楽しい表現だ。土産ものだけでなく、春の情緒をも配っているようだ。
  令和4年 5月号  
     
  黙長き山をそびらに寒牡丹 北尾鈴枝
   「黙長き山」は「山眠る」とほぼ同じと考えて良いだろう。遠目に見ても生命感や活動感のあまり無い山ということだ。その冬の山を遠景に置いて、近景には寒牡丹を配する。つまり遠景の鈍い色彩と近景の鮮やかな色彩とを対比させて、一幅の絵を描き出している。
  マフラーの渦中にありてながらへて 松尾憲勝
  「マフラーの渦中」は「ぐるぐる巻いたマフラーの中」の意味であろう。しかし「渦中」という言葉を使ったことによって、今が大変な時期であることが暗示されている。そうであればこそ、下五の「ながらへて」も重みを持ってくる。中七・下五の「て」の繰り返しにも、溜息のような重みが感じられる。
  髪型に名前のありて明の春 𠮷田鈴子
  一読して意表を突かれた思いがした。確かに髪型にもそれぞれを表す名前がありはする。しかしそれが詩になるとは思いもしなかった。ところが「明の春」という季語と合わさる途端に、晴れ着を着て新年を祝う女性の姿が目に浮かんでくる。この髪型の名前もきっと晴れやかな名前なのだろう。
  永らへて八十八の初手水 岡村祐枝女
   上五の「永らえへて」に詠嘆のような響きを感じる。新年を迎えて、また一年生きてきたという感慨を「初手水」という季語に託しているのだろう。この句の後半は「ハチジュウハチノハツテミズ」と「ハ」の音を間隔を置いて配し、それがリズムを作り上げている。
  若水の柄杓に掬ふ光かな 島松 岳
   新年の季語を使うのは実は難しい。季語それ自体にめでたさが込められているので、句の他の部分に「めでたい」などの言葉を使うことはできない。それでいて句の他の部分にもめでたさがないと、句が割れてしまう。掲句のように構成するのも一つの方法であろう。
  父と児の楽しい時間雪だるま 北村加代子
   何の技巧も用いていないが、それ故に幸せな家庭の様子が読者の心に素直に響いてくる。句の文字のうえには父と子しか表れていないが、この二人を温かく見守っている他の家族の表情も読者には見えてくる。或いは、雪だるまも微笑んでいるのかも知れない。
  注連作り夫の指先荒れてをり 田中恒子
   聞くところによると稲藁を扱うと手が荒れるそうである。しかしそうであっても新年を迎える準備を手抜かり無く行おうとする。この句の主人公の姿には心打たれるものがある。思えば機械もビニールも無かった昔の日本では、皆がそのようにして注連縄を作っていたのであろう。ある意味日本の原風景のような句である。
  マンションの段のぼり降り手毬唄 田辺正和
   人の世には変わっていくものと変わらないものとがある。手鞠遊びは変わらないものであるが、遊ぶ場所がマンションの階段であるというのは現代ならではの情景である。「手鞠唄」が上り下りしているということは、作者の目には遊ぶ子どもの姿が見えていないのであろう。そうであればこそ尚更郷愁が深まる。
  年神を案内申すか明烏 戸田孝一郎
  初烏を詠んだものであるが「明烏」としたことで、「年神」という作者の最も詠みたい季語を使うことが出来るようになった。人の目には見えない{年神」という存在を烏に託して可視化したことで、新年を迎える厳かさが遺憾なく表現されている。「案内申す」という謙譲語も、年神の威厳を表すのに効果的に使われている。
  襟たてて屋台の隅に年忘 中島三治
   「年忘」は日常会話では色々な意味に使われるが俳句では所謂「忘年会」のこと。とは言っても昨年のコロナ禍の状況下では忘年会も開かれなくなっている。しかしそれでは寂しいので一人で忘年会をしようという情景だろう。屋台なら少なくとも「密閉」は気にしなくても良いし。
  鼓動さへ聴こえくるかに弓始 小畑順子
   弓道をしている人でなくても弓始の様子はテレビのニュースなどでしばしば見かける。しかしその映像を自分のこととして実感できるのは感性が必要だ。緊迫した情景を目にしたこの句の作者の鼓動は高まり、それを逆に射手の鼓動であると感じた。それが「鼓動さへ聴こえくるかに」という言葉の意味であろう。
  靴下買ひ寒卵買ひ母見舞ふ 山本知恵子
   中七までは買い物リストがただ並べられているようだが、下五の「母見舞ふ」で印象が一変する。母を思う作者の気持ちが具体的に読者の心に思い浮かぶからだ。「お母さんの足先が冷えませんように。お母さが滋養のあるものを食べられますように。」